合唱曲「夜もすがら」の歌詞の意味や解釈
ども。
ここ2年ほどの欲望は「キリスト教関係に限らない合唱曲を歌いたい」だったんです。聖歌隊だから仕方ないんですけど。それで居場所もらってるようなもんだから。
そんな欲望をかなえるべく、誘われた知り合いだらけの混声合唱団に入りまして。
いつか一緒に歌ってみたいと思ってた人たちと歌っています。
そこで今日(昨日?)初めて練習した「夜もすがら」が、エモポイント満載の名曲でして。
まじめに解説文を書いてみようかなと思った次第です。
軽い気持ちで検索かけたらデマの嵐で、ちょっとイラっとしたのもあります。
参考資料としての音源。
千原英喜/「方丈記」より「III.夜もすがら」 CHIHARA Hideki: "Yo-mo sugara" (All through the night) from "HOJO-KI"
参考資料としての歌詞。
①夜もすがら/独りみ山の/真木の葉に/曇るもすめる/有明の月
②あれば厭ふ/そむけば慕ふ/数ならぬ/身と心との/仲ぞゆかしき
③見ればまづ/いとど涙ぞ/もろかずら/いかに契りて/かけ離れけむ
(夜もすがら/独りみ山の/真木の葉に/曇るもすめる/有明の月)
参考資料としての現代語直訳と解説。
(和歌所歌合に、深山暁月といふところを)
①夜もすがら/独りみ山の/真木の葉に/曇るもすめる/有明の月
①夜通し、一人で深山の木の葉から、曇って(いるが)澄んでいる、夜明けの中の月を見ていた。
・深山→深い山。人里離れた、などの含意がある。「一人見(る)/山の」と「一人/深山の」をかけたダブルミーニングっぽいですね。上手いわ。「独り身」かとも思ったけど、文節的にそれはなさそう。
・まきの葉→真木の葉。検索で出てくるのは「針葉樹の葉」説ですが、「真」は「(建材として)優れた」を意味する接頭辞なので、厳密にはそうと限りません。同様に、実在する種別の「槙」「槇」でもありません。建材として優れた木に針葉樹が多いとかですかね。
・有明の月→夜が明けた後の残月。夜明け頃の月。仏教的な含意では、無明を照らす如来による救済の光、転じて如来自身を指すこともあります。光は如来の力そのものであり、眉間の白毫から発し、世界をあまねく照らし出すんだとか。
・曇るも澄める
明らかに逆説の意味で「も」が使われてますね。単純に矛盾している。
→単純に取れば、「針葉樹の葉によって所々見えなかった月が、時間の経過で葉を離れて澄んで見えた」となるものの、「も」が逆説なのでそれっぽくないですね。
ここであえて「も」を使うことで、矛盾を生じさせ、意味を一つに固定させない、という高度な技法です。
自然さを追及するなら、月自体は澄んでいて、詠み手側になんらかの理由があって曇っている、と考えるべきでしょうか。
これ、検索かけたらなぜか涙のせいになっていて。
→「月が曇ってみえた原因は、葉ではなくて、自分の涙であったことを、夜が明けても残った月の光から悟った」なる解釈が、新日本文学大系にあるみたいですね。
筋も通ってるし、いい感じに感情も揺さぶられて好きです。
→「実際には葉or涙で曇っているが、心眼には澄んで見えている」なる解釈もありました。「心眼」は文字通り、若しくは「(仏の)智慧」を指すため、有明の月とも対応してていい感じですね。
どうせ全部含意してたとか、そんなオチだと思います。
鴨長明は晩年隠棲の中で『方丈記』を著したことで有名ですが、この句を詠んだ時はまだ宮中勤めです。自分が隠棲する未来は知りません。なんなら、源家長日記に「まかりいづることなく、昼夜奉公怠らず」とか書かれてるので、めちゃくちゃ真面目にキャリア積んでる頃です。出世のために頑張ってるんですけど、詳細な理由は後述。
二首目。
(述懐の心を)
②あれば厭ふ/そむけば慕ふ/数ならぬ/身と心との/仲ぞゆかしき
②(身体が)俗世にあれば(心は)それを嫌がり、俗世に背けば(身体・心が)それを求める。物の数にも入らないような身体と、それを厭い、慕う心との関係はどうなっているのかわからない。
もちろん、※諸説ありますシリーズなんですけど。括弧内は適当に外してください。
いくつか解釈の余地がありますね。
この歌を詠んだのが、青年期の鴨長明であることがカギとなります。
彼の青年期は、優雅な貴族ライフを過ごしてたのに父が急死して孤児になり、懇意だった後ろ盾の貴族も全員死んで、運命の歯車が大幅に狂ったあたりです。
当時の社会で、出世するために必要だった家柄と後ろ盾が消滅しました。
とある理由のために出世しなければいけなかった鴨長明、このせいでめっちゃ頑張る羽目になりました。がんばれ。
解釈一つ目。
身体が俗世にない状態、は即ち死を表していると考えられます。
生きてるのは嫌だけど、死ぬのも嫌だ、もうわからん、みたいな自殺願望の歌みたいですね。
解釈二つ目。
身体が俗世にない状態、は、俗世からの離脱、即ち出家を指すと考えられます。
この社会は嫌だけど、いざ出家するのもしんどい、もうわからん、みたいな出家願望の歌みたいですね。どうせ出家するんですけど。
その境遇なら死にたくも出家したくもなるよなぁ。お疲れ様です。
でも出世のために頑張りました。精神的な支えともなった、音楽と歌をもって。なぜ出世か。
鴨長明の歴史が分からないとよくわかりませんね。
鴨長明の家系、その中でも彼の祖父・父は、下鴨神社(賀茂御祖神社)の正禰宜惣官を世襲する家系の生まれでした。要はトップ神官。下鴨神社は、正一位の神階(要はトップ)をもつ神社であり、トップのトップともなれば莫大な権力、莫大な富。
おそらく鴨長明は、いずれは祖父、父と同じ正禰宜惣官の職に就くことを願っていました。
なのに、前述の通り、当時の出世の要件であった家柄と後ろ盾とを失いました。あとは滅茶苦茶に頑張るしかない。
しかし、その願いはかないませんでした。
彼が50歳になったころ、下鴨神社の摂社、河合社の禰宜に欠員が生じます。
河合社禰宜→下鴨神社権禰宜→下鴨神社正禰宜、の順で出世ルートがほぼ固定だったため、当然ながら彼はその後任を目指します。
家柄と、また日ごろの頑張りに報いる意味で、人事トップこと後鳥羽院も、鴨長明を任命するつもりでいました。
が、前任の正禰宜は、自らの息子を後任に強く推します。まぁ、子孫に出世ルート引き継げるようなもんだから必死になるわな。
曰く、音楽や歌に明け暮れる長明よりもうちの息子の方が神社への貢献度が高く、長明よりも息子の方が貴族としての位階が上で、現職でその職に就いている私の長男は重んじられてしかるべき、と。
こうして、鴨長明は、先祖代々の職を引き継げないことが決定します。
後鳥羽院の出した救済策も断って、失意の中引きこもった鴨長明が、ふと葵を見て詠んだ歌が、三首目です。
(身の望みかなひ侍らで、社のまじらひもせで籠りいて侍りけるに、葵をみてよめる)
③見ればまづ/いとど涙ぞ/もろかずら/いかに契りて/かけ離れけむ
③諸葛が視界に入れば、真っ先に、いよいよ涙がでてしまう。どんな因縁があって、下鴨神社との縁が切れてしまったのだろうか。
・諸葛
→桂の枝に、葵の葉を組み合わせた飾り。賀茂の祭りで用いられ、髪に「かけ」たり壁に「かけ」たりする。「葵を見て」「「かけ」離れけむ」に対応。
・身の望み
歌詞の解説だけでこれですよ。3000文字。読むのおつかれさまです。
適度に感情移入すればめっちゃエモいと思います。
先祖代々からのお父さんの仕事を継ぐために、身にかかる様々な不幸をも音楽と歌を支えに乗り越え、長年真摯に頑張ってついにその機会を得たが、最後は音楽と歌のせいでその願い叶わず、失意の中に出家して、最終的にたどり着いた先は仏門ですから。救われないね。
この合唱曲ならではのエモポイントは、この後に一首目が繰り返されることにある、と私は思います。
歌い出し、一首目では、月夜から暁までの長い物語時間(の経過)と、俗世から離された神秘的な空間が提示されます。
続く二首目、三首目では、これまでの鴨長明の人生の振り返りがなされ、同時に、それが苦難に満ちたものであったことが示されます。
曇る月夜に対応していますね。夜の時間が経過していく中で、この人生を振り返りでもしていたんでしょう。
二、三首目を聞いた後に繰り返される一首目。
読み手が、鴨長明の救われない人生を知った後では、もう一度リフレインされる一首目の質は最初と変わらざるを得ません。一首目の仏教的な含意を思い出してください。
夜もすがら独りみ/山の真木の葉に曇るも/すめる有明の月
夜、すなわち無明、煩悩に囚われて、智慧の光が届かなかったこれまでの人生。
それを厭い、出家・隠棲した孤独な暮らしに至ってついに、(真木の葉に)遮られて曇っていた智慧の光は、人生の夜が明けた暁の中で、救いとなって私に届いたのだ、と。
これで「真木の葉」でなくてはならない理由まで思いついたら完璧なんですけどね。
一応、この時代は樹木は人の心を読めるとされていたらしいので、
「出世に囚われていた過去の自分を、その出世欲の心を葉に例えることによって、智慧を自ら覆ってしまっていた様子を示した」なんてこじつけは用意しました。
このこじつけに従うと、曇ったとはいえ智慧の光は届いていたはずなので、
「出家しないといけないのはほんとはわかってた、遮ろうにも、運命はそうさせなかった」みたいな話にもつなげられますね。楽しそう。
もう飽きました。タイトル通りの目的は達成したので許してください。