■
ども。
最近は明るい月夜が続いていますね。
満月に近い月は一層神秘的に見えます。
雲がかかっているとなおさら。
3行にして既に話の方向性を見失いましたね。何に持って行こう。
風景画が好きなんです。特に、月夜の。
アルヒープ・クインジやカスパー・ダーヴィド・フリードリヒらへんが特に。
気になったら見てみてください。ロマン派っていうんでしょうか。
ロシアのロマン派の人たちとか結構私の感性にキます。イリヤ・レーピンとか。
画集とか売ってないかなぁ。
絵が「ふるえるほど好き」になる―MAYA MAXXのロシアの名画と旅ガイド
- 作者: MAYA MAXX
- 出版社/メーカー: 美術出版社
- 発売日: 2005/10
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 6回
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「画集 ロマン派 ロシア」で検索かけて出てきた本です。
ブログ書くたびに読みたい本が増える。
あんまり話が広がった感じしませんね。
そういえば行ったんですよ。今話題のフェルメール展。
こうやって話題を広げればいいんですね。適当な話題。
かろうじて入場制限かからないぐらいの込み具合でした。
フェルメールの描いた絵自体は10点も展示されてなくて、一番最後に。
イントロダクションとして、当時のオランダの各ジャンルの絵画が並びます。
予習をしてからフェルメール本番に挑める構成って言えばいいんでしょうか。
絵画には、書かれた当時の時流/お約束がありますからね。
ゆっくりと当時のスタンダードを学びつつ、イントロダクションも楽しみながらフェルメールに向かえる良い構成でした。
しかし光源左上に置くの好きですねこの人ら。
しかし、あまりの人の多さに驚いたんです。下手したら入場制限かかってたらしいですね。
開催直ぐに行ってるくせして私、正直フェルメールの何がいいのかよくわからないんです。
ここまで人をフェルメール、ひいては美術館に駆り立てるものって何なんでしょう。
私は性格がねじ曲がっているので
・フェルメールのネームバリュー
・執拗なまでのメディアミックス
・ここ最近の教養ブーム
・そのなかでも去年後半あたりから顕著な美術(館)に行こう本
・ここ2~3年の、暗闇と光に焦点を当てた絵画解説書
あたりが理由として思いついてしまいました。
積極的にフェルメールを求めているのではない、みたいな論調ですね。
「話題だから行っておこう」みたいな人が一番多いんじゃないかなーという主観です。
ザイオンス効果の為せる技。
そして、話題だから行ってみた人々は、絵画をどう鑑賞・経験するんでしょう。
例えば私は、大学や読書である程度美術史や技法を習ったので、それを用いて分析的に絵画を見ます。前述の、光源の位置とか。
象徴や構成など、読み解くための知識をもっているので、画家が見せたかった物語をほぼ再現することができます。中高の国語でいうところの、作者の気持ちですね。
美術展のキャプションでもある程度解説されているため、「絵画を(自己流に補完して)読み解く」といった経験が可能になるんでしょうか。
この前置きそこまで重要じゃないですね。もういいや。「話題だから見に行った人に限って絵は感性でるとか訳分らんことを言う」という主張が伝わればよいです。
私が気になっているのが、「感性」で絵画を見る人たちです。
絵画を外部知識で「読み解く」、絵画に自分を代入して「没入する」、絵画を材料にして「空想する」、絵画のある非日常の「空間を楽しむ」。
この辺りのなんとなくわかるんですけど、「感性」で楽しむって何なんでしょう。
コトバンクとかで「感性」と調べても、この場合の「感性」に当たる理解は見つけられません。二行前の文章みたいな鑑賞方法が、辞書的な意味での「感性」に近いでしょうか。
一番多い用例は、「前提知識を排して、自らの感性で鑑賞する」
と言ったものでしょうか。
この言葉通りには、
「特に何もしなくても自らには万能の感性が宿っており、それは混雑した美術展での流れ作業な絵画鑑賞にすら堪えうるレベルのものである」
という傲慢さがあります。ギリシャ神話とかで真っ先に殺されるタイプの人間ですよ。
傲慢さというより素朴さに近いよね。
その感性で受け止めたものの具体的な感想書いてみろよ。
というわけで導き出した結論は、「①絵画の見方なんて人それぞれだけど、②(流れ作業で10秒くらいしか見られず)満足に受け止められていないことを、③感性の一言でごまかすのは違うやろ」というようなものでした。
追加としては、「大して興味もないのに、商業に踊らされて美術館に行くようなやつのなんと多いことか」ぐらい言おうと思います。ビジネスライクですね。みんなで経済回していこうな。
最近よみました。ここで紹介することに表題以上の意味はありません。
合唱曲「夜もすがら」の歌詞の意味や解釈
ども。
ここ2年ほどの欲望は「キリスト教関係に限らない合唱曲を歌いたい」だったんです。聖歌隊だから仕方ないんですけど。それで居場所もらってるようなもんだから。
そんな欲望をかなえるべく、誘われた知り合いだらけの混声合唱団に入りまして。
いつか一緒に歌ってみたいと思ってた人たちと歌っています。
そこで今日(昨日?)初めて練習した「夜もすがら」が、エモポイント満載の名曲でして。
まじめに解説文を書いてみようかなと思った次第です。
軽い気持ちで検索かけたらデマの嵐で、ちょっとイラっとしたのもあります。
参考資料としての音源。
千原英喜/「方丈記」より「III.夜もすがら」 CHIHARA Hideki: "Yo-mo sugara" (All through the night) from "HOJO-KI"
参考資料としての歌詞。
①夜もすがら/独りみ山の/真木の葉に/曇るもすめる/有明の月
②あれば厭ふ/そむけば慕ふ/数ならぬ/身と心との/仲ぞゆかしき
③見ればまづ/いとど涙ぞ/もろかずら/いかに契りて/かけ離れけむ
(夜もすがら/独りみ山の/真木の葉に/曇るもすめる/有明の月)
参考資料としての現代語直訳と解説。
(和歌所歌合に、深山暁月といふところを)
①夜もすがら/独りみ山の/真木の葉に/曇るもすめる/有明の月
①夜通し、一人で深山の木の葉から、曇って(いるが)澄んでいる、夜明けの中の月を見ていた。
・深山→深い山。人里離れた、などの含意がある。「一人見(る)/山の」と「一人/深山の」をかけたダブルミーニングっぽいですね。上手いわ。「独り身」かとも思ったけど、文節的にそれはなさそう。
・まきの葉→真木の葉。検索で出てくるのは「針葉樹の葉」説ですが、「真」は「(建材として)優れた」を意味する接頭辞なので、厳密にはそうと限りません。同様に、実在する種別の「槙」「槇」でもありません。建材として優れた木に針葉樹が多いとかですかね。
・有明の月→夜が明けた後の残月。夜明け頃の月。仏教的な含意では、無明を照らす如来による救済の光、転じて如来自身を指すこともあります。光は如来の力そのものであり、眉間の白毫から発し、世界をあまねく照らし出すんだとか。
・曇るも澄める
明らかに逆説の意味で「も」が使われてますね。単純に矛盾している。
→単純に取れば、「針葉樹の葉によって所々見えなかった月が、時間の経過で葉を離れて澄んで見えた」となるものの、「も」が逆説なのでそれっぽくないですね。
ここであえて「も」を使うことで、矛盾を生じさせ、意味を一つに固定させない、という高度な技法です。
自然さを追及するなら、月自体は澄んでいて、詠み手側になんらかの理由があって曇っている、と考えるべきでしょうか。
これ、検索かけたらなぜか涙のせいになっていて。
→「月が曇ってみえた原因は、葉ではなくて、自分の涙であったことを、夜が明けても残った月の光から悟った」なる解釈が、新日本文学大系にあるみたいですね。
筋も通ってるし、いい感じに感情も揺さぶられて好きです。
→「実際には葉or涙で曇っているが、心眼には澄んで見えている」なる解釈もありました。「心眼」は文字通り、若しくは「(仏の)智慧」を指すため、有明の月とも対応してていい感じですね。
どうせ全部含意してたとか、そんなオチだと思います。
鴨長明は晩年隠棲の中で『方丈記』を著したことで有名ですが、この句を詠んだ時はまだ宮中勤めです。自分が隠棲する未来は知りません。なんなら、源家長日記に「まかりいづることなく、昼夜奉公怠らず」とか書かれてるので、めちゃくちゃ真面目にキャリア積んでる頃です。出世のために頑張ってるんですけど、詳細な理由は後述。
二首目。
(述懐の心を)
②あれば厭ふ/そむけば慕ふ/数ならぬ/身と心との/仲ぞゆかしき
②(身体が)俗世にあれば(心は)それを嫌がり、俗世に背けば(身体・心が)それを求める。物の数にも入らないような身体と、それを厭い、慕う心との関係はどうなっているのかわからない。
もちろん、※諸説ありますシリーズなんですけど。括弧内は適当に外してください。
いくつか解釈の余地がありますね。
この歌を詠んだのが、青年期の鴨長明であることがカギとなります。
彼の青年期は、優雅な貴族ライフを過ごしてたのに父が急死して孤児になり、懇意だった後ろ盾の貴族も全員死んで、運命の歯車が大幅に狂ったあたりです。
当時の社会で、出世するために必要だった家柄と後ろ盾が消滅しました。
とある理由のために出世しなければいけなかった鴨長明、このせいでめっちゃ頑張る羽目になりました。がんばれ。
解釈一つ目。
身体が俗世にない状態、は即ち死を表していると考えられます。
生きてるのは嫌だけど、死ぬのも嫌だ、もうわからん、みたいな自殺願望の歌みたいですね。
解釈二つ目。
身体が俗世にない状態、は、俗世からの離脱、即ち出家を指すと考えられます。
この社会は嫌だけど、いざ出家するのもしんどい、もうわからん、みたいな出家願望の歌みたいですね。どうせ出家するんですけど。
その境遇なら死にたくも出家したくもなるよなぁ。お疲れ様です。
でも出世のために頑張りました。精神的な支えともなった、音楽と歌をもって。なぜ出世か。
鴨長明の歴史が分からないとよくわかりませんね。
鴨長明の家系、その中でも彼の祖父・父は、下鴨神社(賀茂御祖神社)の正禰宜惣官を世襲する家系の生まれでした。要はトップ神官。下鴨神社は、正一位の神階(要はトップ)をもつ神社であり、トップのトップともなれば莫大な権力、莫大な富。
おそらく鴨長明は、いずれは祖父、父と同じ正禰宜惣官の職に就くことを願っていました。
なのに、前述の通り、当時の出世の要件であった家柄と後ろ盾とを失いました。あとは滅茶苦茶に頑張るしかない。
しかし、その願いはかないませんでした。
彼が50歳になったころ、下鴨神社の摂社、河合社の禰宜に欠員が生じます。
河合社禰宜→下鴨神社権禰宜→下鴨神社正禰宜、の順で出世ルートがほぼ固定だったため、当然ながら彼はその後任を目指します。
家柄と、また日ごろの頑張りに報いる意味で、人事トップこと後鳥羽院も、鴨長明を任命するつもりでいました。
が、前任の正禰宜は、自らの息子を後任に強く推します。まぁ、子孫に出世ルート引き継げるようなもんだから必死になるわな。
曰く、音楽や歌に明け暮れる長明よりもうちの息子の方が神社への貢献度が高く、長明よりも息子の方が貴族としての位階が上で、現職でその職に就いている私の長男は重んじられてしかるべき、と。
こうして、鴨長明は、先祖代々の職を引き継げないことが決定します。
後鳥羽院の出した救済策も断って、失意の中引きこもった鴨長明が、ふと葵を見て詠んだ歌が、三首目です。
(身の望みかなひ侍らで、社のまじらひもせで籠りいて侍りけるに、葵をみてよめる)
③見ればまづ/いとど涙ぞ/もろかずら/いかに契りて/かけ離れけむ
③諸葛が視界に入れば、真っ先に、いよいよ涙がでてしまう。どんな因縁があって、下鴨神社との縁が切れてしまったのだろうか。
・諸葛
→桂の枝に、葵の葉を組み合わせた飾り。賀茂の祭りで用いられ、髪に「かけ」たり壁に「かけ」たりする。「葵を見て」「「かけ」離れけむ」に対応。
・身の望み
歌詞の解説だけでこれですよ。3000文字。読むのおつかれさまです。
適度に感情移入すればめっちゃエモいと思います。
先祖代々からのお父さんの仕事を継ぐために、身にかかる様々な不幸をも音楽と歌を支えに乗り越え、長年真摯に頑張ってついにその機会を得たが、最後は音楽と歌のせいでその願い叶わず、失意の中に出家して、最終的にたどり着いた先は仏門ですから。救われないね。
この合唱曲ならではのエモポイントは、この後に一首目が繰り返されることにある、と私は思います。
歌い出し、一首目では、月夜から暁までの長い物語時間(の経過)と、俗世から離された神秘的な空間が提示されます。
続く二首目、三首目では、これまでの鴨長明の人生の振り返りがなされ、同時に、それが苦難に満ちたものであったことが示されます。
曇る月夜に対応していますね。夜の時間が経過していく中で、この人生を振り返りでもしていたんでしょう。
二、三首目を聞いた後に繰り返される一首目。
読み手が、鴨長明の救われない人生を知った後では、もう一度リフレインされる一首目の質は最初と変わらざるを得ません。一首目の仏教的な含意を思い出してください。
夜もすがら独りみ/山の真木の葉に曇るも/すめる有明の月
夜、すなわち無明、煩悩に囚われて、智慧の光が届かなかったこれまでの人生。
それを厭い、出家・隠棲した孤独な暮らしに至ってついに、(真木の葉に)遮られて曇っていた智慧の光は、人生の夜が明けた暁の中で、救いとなって私に届いたのだ、と。
これで「真木の葉」でなくてはならない理由まで思いついたら完璧なんですけどね。
一応、この時代は樹木は人の心を読めるとされていたらしいので、
「出世に囚われていた過去の自分を、その出世欲の心を葉に例えることによって、智慧を自ら覆ってしまっていた様子を示した」なんてこじつけは用意しました。
このこじつけに従うと、曇ったとはいえ智慧の光は届いていたはずなので、
「出家しないといけないのはほんとはわかってた、遮ろうにも、運命はそうさせなかった」みたいな話にもつなげられますね。楽しそう。
もう飽きました。タイトル通りの目的は達成したので許してください。
■
ども。
今回の更新停止の件につきまして、事の経緯を説明いたしますと、当初の予定では「3日坊主→3週間坊主→3か月坊主」として3回ほど冒頭ネタを続けていくつもりでした。
見事に3週間目の更新を忘れてしまい、苦肉の策の30日目も忘れて寝てしまったために、もうどうでも良くなってきた感が強くて適当に再開しますね。
そんな言い訳。適度にネタを追及しない。
今後の対応といたしましては、出来る限りの更新とか言っとこうと思います。それが真摯。
誠に申し訳ございませんでしたぁ。
読書管理アプリの話です。
管理という言葉だけでアレルギーを感じるフーコー狂信者な私ですが、正直読書状況とか覚えてられないわけですね。
ブログを書いている机に43冊、常用カバンに3冊、背後に33冊。これ本棚の無いリビングの話な。
仕事の関係で覚えることが多くて、畢竟そういう本が増えてるんですが。
積まれた本から未読の本を探し出す作業がめんどくさくてですね。
ジャンル被りの同じようなこと書いた解説本が多いので、通読したかどうかもわからずですね。
もうあきらめてブクログを導入しました。いやだったけど。アレルギーだから。
ブクログの、私にとって便利な点は次の2点です。
アプリ版の、カメラでバーコードを撮影すると本棚登録できる機能。
webとアプリで同期できる機能。
同期できるのは今どき当たり前な気がしないでもないんですけど、
単純に冊数が多い現状、カメラバーコード機能がめっちゃ便利でして。
一瞬で登録が済みました。かつ、新規で一気に登録するのも1分かかりませんね。
書名検索すると似た本が出てくるために、読みたい本がたまっていくのが唯一の憂いですね。
「本棚に読んだことのない本がない人生なんて」とは言いますけど、
それでも気になる本は読みたいですね。読書スピードも格段に落ちてきたし、リハビリせねば。
この本ですよ。表紙の色調が好みすぎて、思わず買ってしまいました。
毎回こういうこと言う割に、私、Twitterで嫌というほど目に付く「『ニムロッド』読みました。装丁が素晴らしいです。黒色が…」みたいな発言が嫌いです。
買って読んだにもかかわらず、感想から逃げて装丁かよ。
同じような理由で、この本の感想ツイでよく見た「男子高校生の、さわやかだけど(ちょっぴりor少しだけorほのかにetc…)ビターな…」も嫌いです。
それ、言い換えてるだけで、帯に書いてあった言葉やん。それ以外のことは。
あなたの読書経験は帯や装丁ですか。
自戒を込めて。同族嫌悪みたいな気がしてきました。過去のブログを読んでて自分が要求するレベルの記事はないはずだ。
自分が要求するレベルの感想。
米澤穂信、現役男子高校生かと思ったんです。それほどまでのリアリティ。
自分が男子校高校生してた時の、「距離感」がそのままそこにあるんですね。
特に人を好む嫌うでもなく、親しくとも付かず離れず。「行けたら行くわ」ぐらいの。
未熟さゆえに、人の事情に土足で踏み込む。考えが足りずに、傷つける。
無関心をあくまで装うも、相手の人生の事情はしっかり覚えて気にはかける、この距離感。
食い違う価値観も、そのまま受容して、感想を述べるだけ。
ドラマ映えする「熱い友情」の対極ですね。ゼロ度の友情。
「友情」という言葉になにか熱いものが含意されている気もします。いい言葉が思いつかない。
自分と同じレベルの相手として相手を認めているし、
自分とは違うものとして認め、裁かない。他の登場人物をも。
高校生ぐらいの、傲慢で、自分を低く見積もらないことによる達観。諦め。
ここまで書いてみると、たまたま頭のレベルが合った幸運な二人の関係な気がしてきますね。同じ文化を共有して、かつ回転数合った相手と過ごすの楽しいだろうなぁ。
腐女子の人には「男子高校生のフリーズドライ」とか言って勧めました。
現実の男子高校生の質感が、生のままそこにあります。
自分の代入でしか本読めないのどうにかしたいですね。普段あれだけ共感バカにする割にね。
その形式でしか人は本を読めないとかいう指摘もあるんですけど。
■
ども。
大罪人でございます。ブログの毎日更新を志すも、1日で終了させるタイプの。
思いつきで行動するにもほどがありますね。
それでもふてぶてしく更新しようと思います。
義務にしたら楽しくなくなりますからね(露骨な逃げの姿勢)
今年が始まってからというもの、おそらく書店に行き続けています。昨日もそうでした。
昨日は梅田駅周辺の大型書店に。
となると思いつくのが、JR駅ビル内の蔦屋書店とNU茶屋町内の丸善・ジュンク堂書店。
片や巨大なワンフロア、片やビルの5階分。見るには飽きませんね。
梅田蔦屋書店。
ビルの9階に会って、エスカレーターから入れば目の前にスタバ、エレベーターから入れば目の前に雑貨屋、と、あんまり書店っぽく無いスタートです。カジュアルですね。
長方形のフロアの中心に、円形にスタバと座席があって、それを更に大きな円で囲むように本棚が展開されています。
そして、その円の外側には、柱を使って雑誌が配置され、壁際にまで本が並んでいるところもあります。外周の半分くらいかな。
残りの外周は、多種多様な別店舗(雑貨屋、文房具、マッサージ、etc…)。そして、その別店舗とリンクする本が、美術館の企画展のようにフィーチャーされて配置されています。
従来の書店と異なる点を探せば枚挙に暇が無いんですけど、一番推せるところはその整理された雑多さですよね。軽々しく多様さって言いたく無い。
本から広がる現実まで思い起こして。とか言っとけば許される気がします。
場所柄だけに、ビジネス書が強いですね。その上、見た感じでは、どのジャンルでも新刊に強いでしょうか。
また、学者向きでなく、初心者〜中級者に向けた本が多いようにも見受けられます。まぁ滅多に買わんしな。買う側としても。
何か新しいものに足を突っ込む時に、触りや走りの本を探すために来ると良いのかな、と思います。
画期的なことに、書籍の各ジャンルにコンシェルジュを設けているので、その人たちに聞いてみてもいいかも知れません。私は聞いてないけど。聞いてから書けよ。
書店と言うよりは、エンタメとか、美術館とか、そんなものに近いのかなと思います。単体の書店とamazonが競う時代に、先ずは書店に来て、楽しんで、慣れてもらうことが先決ですからね。時代だ。
ここまで、日記の程を装った長い前置きでした。まだまだ続くんじゃよ。前置きが。
この梅田蔦屋書店、武雄市図書館の例もあってあまり足運んでなかったんですけど、ある企画をきっかけに定期的に通うようになりました。
それが、「読書の学校」です。
現代に生きる私たちに関連するテーマを設定して、それに関する書籍を三冊、蔦屋書店と出版社が選書して展示・販売します。
まぁ私の厨二心をくすぐるテーマが多いのも確かなんですけど。元々相性が良いのかも。
選ぶ出版社も中々攻めた選び方してるなぁと思います。そこも好き。
出版される本は減ったとはいえ、それでも本が溢れる中、自分で選ぶよりは、専門性の高い人にオススメされて選びたいところですよね。多分。リスク的に。高いしな。
そんな企画が自分にベストマッチだったので、展示が変わるたびに行っています。
本日はその中から。今は第三講なんですけど、一個前の第二講で紹介されてた本です。やっと前置きが終わったよ。お疲れ様でした。
まごう事なきジャケ買い。今ではもう覚えてないんですけど、読書の学校の帯に載ってた推薦文も素敵でした。
文化人類学らへんの本なんでしょうかね。エチオピアのゴンダール記、です。
そんな分類はそれとして、単純に読んで面白いんです。
とりあえずフィールドワークしてみたり本書いてみたりするのは良く見るんですけど、この本の特徴はその語り口。ここまで魅力的に、かつ語り分け、られるこの人の文章力よ。
15章くらいあったと記憶してるんですけど、語りの形式をそれぞれで使い分け。時には読者と物語の間に語り手が強く現れ、時には語り手がほぼ透明になって。効果的にそれを行う事で、エチオピアやゴンダールでなくて、関わったその一人の人間の人間性すら感じられるようです。会ってないのにね。
この手の本、内容はともかく読んで面白く無い本が多かったんです。それだけに強い衝撃でした。上から目線にもほどがあるな。多方面に殴りかからない。
■
ども。
明けましておめでとうございます。
今年こそは、あのころのように、と毎日更新を志すもお正月の雰囲気にのまれて
既にマイナス三日坊主となってしまいました。
大体こんな感じですが今年もよろしくお願いします。
記事のネタだけは勝手に思いつくんですけどね。
働いて帰ってパソコンを開いて文章に昇華させるまでの関門と自堕落が。
2018年に読んだ本とか紹介しても良かった気はするんですけど。
またいつかします。どうせやらない。
新年早々本を買いました。昨日。蔦屋書店で。本屋初め。
すごいですね。蔦屋書店だけは平成の先を行ってましたよね。まだ平成ですけど。
東京行ったときも代官山蔦屋書店までわざわざ行きましたね。
緑生い茂るオシャレな代官山の雰囲気に飲まれかけてたのですぐ帰っちゃいましたけど。新幹線の時間もあったか。
代官山店は洋書めっちゃ強くて、みてて楽しかったです。お仕事らへんのところで何冊か買いました。
例えばこれ。
『~は楽しい!』シリーズ、4冊あって、残りの3冊は邦訳されてるんですけど、
カクテルだけまだ邦訳されてないんです。手に入れた。フランス語だけど。
たま~にフランス語の単語とか調べながら読んでるんですけど、もしかしなくてもそろそろ翻訳されそうですね。
まぁ、その時はその時で。
このシリーズ、良いんですよ。
どうやら教科書のつもりで書いているらしく。但しフランス人向け。
『ワインは楽しい!』なんかは、比較的イントロダクション控えめで、品種と産地の一覧にめちゃくちゃ力の入った構成となっています。
モニターぐらいある本の1ページに1産地・品種ですからね。
広辞苑といい勝負な厚み。重み。
この本、おそらく射程は、ワイン初心者(一般的な真実・迷信の類を知っている)。
迷信の排除と、再教育に近い懇切丁寧なイントロダクションです。
一番伝えたいことはティスティングの楽しみっぽいよな。
だから網羅的に乗せるんですかね。
対して、『ウィスキーは楽しい!』は、日本の入門本とあんまり変わりません。目次だけなら。
本が大きい分、図版が多く、間も取ってあるので読みやすいですね。
そして、見開き1ページをウィスキーに関わる単語、人物、戦略にいたるまで使います。すごい。ホームバーの造り方に見開き使ってる本なんか初めて見た。
情報濃度は高いんですけど、本の大きさで中和してるところありますね。
読みとおすだけならそこまで時間かからないと思います。
このシリーズ、自ら「教本」と名乗るだけはありますね。
飲んで楽しむ、あるいは自宅で作って楽しむなら、
この1冊でたいていのHow toや知識欲は満たされてしまいそうです。
適当に昨日買った本でも載せとこうかと思ったんですけど、
適当に書き勧めたら昨日買った本のことに触れずに進んでしまいました。怖いね。
そういえば、このシリーズ良いんですよとか言いながら、明確に答えだしてないですね。
ぜひ読んで見つけてみてください。そんな感じでどうぞ。
まさか、適当に書いただけとかそういうわけではないd
■
ども。
物語論するとか言っときながら、最近になってやっと、イーグルトンの『文学とは何か』を読み始めました。
古本屋周回って中々時間と手間がかかりますね。
カードゲームしてた頃は、雑多に詰め込まれた何千枚のカードから背取り?とか出来たんですけどね。
いかんせん媒体が大きい。かつ多い。
結局、大学生協の5%引きで妥協しました。
お金と時間のバランス考えて生きてきましょうね。そんな感じの教訓。
近況。
昔からずっと耳が遠くて、面白聞き間違いを多発するんです。
最近はATMの自動音声から還付金ならぬパンプキン詐欺を生み出しました。
ポップな語感でいいですね。
ビジネスに歪められた現代ハロウィンに対する風刺、みたいな感じで適当な現代アートにすればいいと思います。
ジャックオランタンに使うカボチャ自体、そもそも食用でないので存在が詐欺みたいなところはあります。
というか、元の伝説では蕪なんですけど。パンプキン詐欺。
今日の本。
マンガでわかるジャズ: 歴史からミュージシャン、専門用語などを楽しく解説!
- 作者: 山本加奈子,及川亮子
- 出版社/メーカー: 誠文堂新光社
- 発売日: 2018/09/18
- メディア: 単行本
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おしごとのつごうじょうジャズの事は知らなければならないなと。
普段聴く音楽らしい音楽はクラシックや宗教曲なので、まぁ分からないんですよ。
それでも何とか知ろうとして、ジャズがわかる本を探していました。
この本に至るまでの経緯。
アプローチ1。
音楽的な形式として理解しようとする。
撃沈。クラシックみたいにしっかり、形式が決まってると思ったの、ド偏見でしたね。
どうも、テーマとアドリブで構成されているらしい事を理解する。
アプローチ2。楽譜。
ジャズ・スタンダード・バイブル セッションに役立つ不朽の227曲 CD付き
- 作者: 納浩一
- 出版社/メーカー: リットーミュージック
- 発売日: 2010/11/15
- メディア: 楽譜
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俗に言う黒本ですね。
見事にテーマとコードしか書いてない。
そりゃそうですよね。これからアレンジしてソロ弾くのか。すごいなジャズの人。
余談。
黒本も、賛否両論みたいですね。楽譜という媒体の特性上、ジャズの各曲の様々な調のバリエーションから選別した一つのコードでしか載せられ無いからって。
ここら辺、『讃美歌』から『讃美歌21』への移行に物申すみたいな言説と似たところがありますね。選曲の問題点の話でね。
選別する以上、何しても不正解なので、編集者が針の筵ですね。厳しい仕事だ。それはともかく。
アプローチ3。まんが解説本。
この本はそれに加えて、時間から解釈という強力な武器を備えており。
批評や解釈の時に、時間と空間の二軸から物申せば大体それっぽいことが言える事を習っているので、まぁ間違いなかろうと。
なんとなく分かってきました。
一見、裾野が広くて網羅しにくい分野に見えますけど、ある程度の規則性はあるんですね。
流れさえわかればこっちのもんです。
後は聴くのみ。
百聞は一見にしかずとは言えども、その百聞から何をか感じられる感性を持ち合わせていないもので。
ちゃんと勉強しましょうね。
たまに、「まんがでわかる…」を極端に敵視する人と会います。親でも殺されたんかってくらいに。
確かに、本物に触れた方が早いのはその通りなんですけどね。
哲学書とか、『罪と罰』とか、本物に触れて一読で何か理解出来たら化け物ですから。研究に寄与してくれ。
まんがでシリーズで自分の中に目次を作ること、大いに良いと思います。
禍根が覆い隠せないほど噴出してきたのでこの辺で。
印象派と美術のはなし
ども。
この本についてです。
帯に、日本人はなぜ印象派が好きなのかわかる!みたいな文言があって、
面白そうやんけ、と思って買いました。
10ページ目に既に理由書いてましたね。そんな出オチ。
きっと一冊かけて論証するんだろうな的先入観。
実際、印象派って人気みたいですね。印象で判断できるお手軽さもあり、他の絵画みたいに読み解く必要もなく楽しめ。現代美術ほどの背景も求められず。
美術には元々興味があったので、大学で近代芸術史のクラスを取ってました。びじゅチューンで授業する面白先生。
学部にも、美術と倫理を専門にしていらっしゃる先生がいるので、なんとなく美術と縁があります。
玄関にマティス飾ってるような家に生まれたからですかね。
一見いいとこのお坊っちゃんに見えて、マティスが野獣派の画家というところがポイントです。
受けた近代芸術史の通り、この本の1章もそんな内容で。
印象派関係の美術史をさっとさらう、みたいな。
2章から後は、印象派の鍵になるマネやモネ、ドガ、らへんの人たちの人物史を絡めながら、1章の内容をより詳細にさらって行くような。
二重に同じ内容さらってくれるのほんと分かりやすくて助かります。深度と観点も変えて。
授業では、芸術史に画商絡めた話教えてもらってないのでそこら辺が特に面白かったです。
所属してる研究会で最近、芸術の価値がいかにして決まるか、みたいなディスカッションをしたのを思い出します。金ないと行きてけませんしね。
ずばり、この本の素晴らしいところは図版です。
文庫なのにカラー。
本文の前に引照付きでまとめてあるので導入にも最適。
図版と文章の混ざった読みにくさもなく。
引照も、一回引いて終わりではなく、本文中に何度も別の文脈で押さえられ。
この人、わかってるなぁ。
そんな一冊でした。
ちくま文庫で裏表紙が敬体なのも珍しい気がします。
深い夜の街
ども。
タイトルの通りです。
Twitterのbioには「人嫌いで人間性に欠ける」と書くぐらい人間苦手な私です。
でも町は歩いてみたいしもっと冒険してみたい。
そんな人にとって、深夜の街は人間全然いなくて楽しいんですよね。主に1時ごろ。
終電で帰った人がコンビニから退散した当たりの時間帯です。
普段人でごった返してる駅前はゴーストタウンと化し、
百人以上住んでるのではないかとばかりのメガマンションからはほぼ灯りが消え。ほぼ。
街並みはそのままにして1人/1hぐらいしかすれ違わない環境になります。
そんな街を散歩するのが好きです。
どんなに嫌なことがあっても4、5駅分くらいずっと歩いてれば冷静になりますよね。
体力的にはともかく。さすがに疲れたわ。
電車で1時間程度なら徒歩圏内と自称する私でもしんどいものはしんどいです。
そろそろ自転車買おうかなとか思ってもいます。止める場所で悩むんでしょうけど。
深夜の道路を高速で走ってみたりしたいですよね。流れていく夜景と光的な。
夜。いいですよね。
昼の境界を越えた先を感じます。
深夜1時も越えて、太陽が昇るまでの時間。短いようで長いし、長いようで短いですよね。
ひとたび日が昇れば空は紅に染まり青になり曇って雨が降り時には雷が降りと忙しいですけど、夜の間はただ真っ暗闇なだけですからね。せいぜい雨風の音ぐらいですか。
そういえば最近の夜空って明るくないですか。雲に街灯りでも反射してるんですかね。それはともかく。
そんな限りある永遠みたいな時間が好きです。夜は人を詩人にする。
元々は月の話しようと思って書き始めたんですけど、また今度にしましょう。長いわ。
上の段落みたいな感情をもう少し伝えたくなったので詩を一篇。
真夜中にひとり コップに 氷をいれて ソーダ水を飲む クーラーの音が うしろでしてる ビルのあかりがひとつずつ消えて もうすぐ世界はまっくら でも くらくなるほど 残った光りがあかるくて 見ている間に また夜があける /銀色夏生「熱帯夜」
— ひとひら言葉帳 (@kotobamemo_bot) 2018年10月5日
選び取られた現実(の状況)の提示でしか表されない感情がある、と思うんです。
名前がついてる感情はそれさえ言ってしまえば終わりなんですけども。
私はこの詞から、上段落みたいな感情を感じます。強烈なアンビバレンツ、だけどどこかノスタルジック、そんな。意識高そう。
そういえば読書ブログなので本の紹介をしよう、と思ったわけです。
ものの見事に『夜と霧』しか出てこなくてですね。読んでへんくせに。
いっそamazonの検索窓で、カテゴリ:和書に指定して「夜」って入れたらどんな本が出てくるんだろうと思ったわけです。
そういえば、このブログでは、はてなブログのamazonリンク機能を使って書いてます。アフィリエイトは入れてないので別の人から買ってあげてくださいね。
ものの見事に『夜と霧』ですね。だから読んでへんって。
次に出てきた本。
懐かしいですね。
おそらく中学生時代に図書館で借りて読んだよなと記憶してます。
でも今覚えてないってことはつまりそういう事なんでしょう。
何事にも時がありますからね。読むべき時に読むことになるのだと思います。
当時はあまり受け付けなかったと記憶してるんですけど、最近有頂天家族シリーズが面白く読めたので、おそらく大丈夫でしょう。最近どころか2年前だよ。光陰矢の如し。
次。
こんな本ありましたね。懐かしいわ。
つい最近書店で平積みされてて、場所によっては今でも平積みされてるんじゃないでしょうか。私のウォッチ書店では一件だけ平積みのままです。
Twitter詩人、いますよね。あまりTwitter寄り付いてないので、中高生から怒涛のRT食らう恋愛系の人しか思いつかないんですけど。
しかし、詩の機能、興味ありますよね。なんなんでしょうこれ。
この人のTwitterはフォローしてないんですけど、フォローしなくても動向が分かるほどRTといいねで流れてくるんですね。
この詩に深いなとしか思わない自分の浅薄さを思います。
試し読みはこちらから。
そろそろ収集つかなくなりそうなので次の一冊で最後にします。
作中時間は夜じゃなかった(夕暮れでしたっけ)と記憶してるんですけど、表紙も相まって、自分の中でのイメージが雪の轟々と降る夜だったので。こんなオチかて。
辻村深月、なかなかやばい人だなぁと思っていまして。語彙力が最近の若者かな。マジヤバい。
この人の書く文章、と自分が合わないから読まない作家さん、なる存在が大体の本読みにはいると思うんです。ちなみに私は村上春樹。
辻村深月のヤバいところは、作品単位でそれを生み出すことです。自由自在かな。
ついったとかだと『ツナグ』で辻村深月作品読み始めて二作目でギブ、なんて人が多かったように思います。むしろ私『ツナグ』合うんかな。
しかし仕方ない面もあって。
この作品、元々ある程度小説を読み慣れてないとしんどいとは思います。
語りの視点が8人+語り手で揺れ、かつそれぞれの短編が挟まれつつ遅々として本編が進んでいく、なんて作りなので、少し時間おいて忘れるともう読めなくなるんですね。
とてもじゃないけど、小説読み始めた人には進めにくい作品かなと思います。
長くなってきたので強引に断ち切ろうと思います。では。
■
ども。
近況報告も兼ねて。
誕生日を迎えて、どう言い訳しても大人としか言えないような年になりました。
いまだに未成年と間違われますけど。ここまでくると見た目服装が子供っぽいってか。
波乱万丈の一年間をなんとか生存したのでほっとしています。いました。
学業と仕事の2足のわらじのうちは楽できないんですよね。そのうえサークルが被ってくるので手すら足りない。
順調に行けば後1年半、人生の夏休みを満喫していこうと思います。ほんと忙しい夏休みだこと。
前の記事を見ると、物語論に興味があるようなことを書いています。
この物語論と呼ばれる分野、大きく分けて2つの領域に分かれます。
一つは、物語哲学と呼ばれる、理論的な分野。
「誰の視点」から、「いつ」語られた「どのような」物語か、なんて、物語に切り込む理論を筋立てるのが彼らの役目です。不勉強だった場合に備えて謝罪の意を示します。
もう一つは、物語論こと批評の分野。実践。
実際に書かれたテクストに、理論と自らの立場から切り込んで新たな読みを示します。
正直この分野、一体何の意味がとは思うところです。即物的に役立ちはしないよなぁと。当たり前ながら。
新たな読みを提供し、テクストへの見地を深めて、どうするんだろう。これ怒られるやつかな。
何をして物語論を学問分野足らせているか、わかるくらいまでちゃんと勉強しようと思います。
久しぶりにブログを更新しようとしたきっかけです。芥川賞受賞したそうですね。
どんどん話題になってるけど、読む時じゃないよなと思ってて手出してませんでした。
というか恐らく読まないつもりでいました。来世で読もうとかなんとか。
読んだきっかけは、本棚の整理で出てきたこの本のことを思い出したからです。作者が同じ。
この本、『コンビニ人間』に負けず劣らずの厚さなんですけど。薄いと言いたい。
内容が次元超えた激しさなんですよね。少ない語彙を捻りだす。
取り敢えずのテーマは家族物語になるんでしょうか。
家族の愛が得られない子供の話、なんて筋は、最早チープです。
私たちの生きる世界の方が百倍現実的ですからね。
もう、フィクションの小説で何かを問えるほどのテーマでは無くなりつつあります。
しかもこの薄さかよ、と思いながら読んでたんですけど、電車の中で読み進むうち、いつしか怪しげな雰囲気だけを感じさせながら物語は進んで行きます。
明確な伏線や、転換点があるわけではないけど、何をか感じさせるような。
そして、その雰囲気を纏ったまま進む文章は終盤のある一文で本性を表します。
そこから先は怒涛、まさに私たちの生きる世界すら変える世界観へと達します。
哲学的、に似た雰囲気はあるんですけど、哲学でも無いですよね。かと言って現実で打ちのめすわけでもなく、ただただ世界観が変わるのみ。
この本、2件しかブログ書かれてないのが意外すぎて。ニコ動で言えば#もっと評価されるべき 作品だと思います。もしくは作者。芥川賞取ってましたね。評価されてるわ。すごい。
これは別件ですが、この本を読んだ人が、この結末をハッピーエンド系ととるかバッドエンド系ととるか、に興味があります。読んだ人、いらっしゃったら是非教えて下さい。
長い前置きを経て。本題。『コンビニ人間』。
帯には「現代の実存を問う」なんてコピーが書いてありますけど。どの層に訴えかけてあのコピーなんでしょうね。80年代の古き良き理論武装を感じます。哲学アレルギーのあなたにも簡単にわかる「現実存在」。
芥川賞まで受賞してしまえば、ネットには意見感想批評の類が溢れかえります。そんな文章群をみて、この作品に「反抗期み」を感じたあなたが正しい。と思います。私は。
余談。
芥川賞受賞作品で面白さがあるのって珍しいですよね。一瞬直木賞と間違えたかと思いました。
この本の文学的技巧等々についてはよくわからないんですけど、このテクスト、あまりに読者が一言申したくなる社会?問題が盛りだくさんなんですよね。念のため、「良くわからないけど馬鹿ほど真理に近い」系の意図は無いです。その信仰は嫌い。
おそらく、「普通」までを問われて一切共感出来ない読者はいないでしょうよ。大体の読者が、無意識に、何かしらを読み込んでこの本に向き合うわけです。そして、書かれた以上の何かを読み出す。
読者を飲み込んで、書かれていないことまで読み出させるほどの裾野の広さと、力をもった物語ってすごいなと思います。特に論拠はない。
余談その2。
主人公、合理的です。対比すべきは感情でしょうか。感情の余地を感じさせないほどに合理的。
多分、生理的に、この主人公を受け入れられずに読破を断念する人がいると思うんです。
まともに道徳を積んでいれば、公園で死んだ小鳥を焼き鳥にして食べようとする3歳児(でしたっけ)は受け入れられないはずです。ちゃんと、家族の好物が焼き鳥であることを考慮したとしても。
でも、主人公の方が現実的だと思うんですよね。
ある一つのきっかけから、家族全員の幸福を願うか、道徳的感情を抱くか、私は前者が自然だと思うんですけど、いかがでしょう。自分で言ってて無理な気がしてきた。前者を選択する余地くらいにしときます。
哲学書を読む際の必須スキルの一つに、実際に使われている文脈ではなく、文章上の論理関係からその単語の意味を判断する、というようなものがあります。これがないとカントが読めん。
そんな、主人公から哲学に通じるものを感じたというだけの話です。話が長い。
今学期、特に倫理について学ぶ授業が多いです。そこら辺について考えてみようと思います。
■
ども。
どうも物語論が自分のしたいことに最短経路らしく、大学ではその勉強をしています。
しかし勉強していると、読み書きの意味が分からなくなってくるよなぁ。虚無虚無。
どこぞのイスラームが国境の国では、職業小説家がいるにも関わらず、小説が読まれないんですって。
なんでも、コーランに全て真理が書いてあるのに、被造物が書いたものから真実を知る必要はないからだとか。
意味や因果を見出す方がパラダイムの周回遅れなのかもしれませんね。
パラダイムってこんな意味で使わない気がするな。特定の時代の特定の地域の常識って意味で書きました。
今年も恒例の演奏旅行を終えました。
今年は立案引率だったので、精神的には楽でしたね。人任せが得意でないので。
その分計画立案交渉引率する手間かかったけどな。実質手間なのは引率なので。
なぜか生徒が行程立案することになってて驚きました。プロに丸投げ。
それでも反省点の塊なので来年に向けて、記録しておかないといけませんね。
素晴らしいことにマニュアル完備なんですけど、原案が10年以上前、かつ口伝併用なのでいい感じにマニュアル書き直さなければね。マニュアルあるなりに困ることはあります。
演奏旅行のお供。
これこれ。新潮社の、黒い表紙に赤い箔で文字が書いてあるやつ買いました。
表紙買いはありますよね。
もう一冊。
これこれ。寺山修司。「ことばを友人にしよう」。
表紙と人物イメージがあんまり一致しない感じで逆に気になりました。何を狙ってこの表紙なんでしょう。
三冊目。読んでないから省きます。
思想系の人で、フランス第x大学に留学してたら割と個人的に文章が好きなのではないかと言う推論を。読めてないけどな。忙しかったんじゃ。
太宰治も寺山修司も、高校の時に近代文学が専門だった先生に習ったのである程度は知ってました。専ら歴史秘話ヒストリア。
世間のイメージみたいなものの提示もあって、かつそうでない例の提示もあって、受け取り方は自由、みたいな先生だったのでありがたかったと思います。無駄にイメージがつかなかった。
そのおかげでと言うかなんというか、太宰に鬱々しいイメージついてるのがよく理解できてなかったんですよね。授業では『ヴィヨンの妻』『桜桃』を扱ったので。
読んでよくわかりました。これはあかん。
よく使われる表現に、「通奏低音のように○○が響いていて…」がありますけど、基本的にこの本通奏低音で構成されてますよね。メロディー不在ハーモニー不在。倍音構成はかろうじて変わる、みたいな。
感想書くふりして自分語りする輩が嫌いなのでそこらへんの言及は控えますけども。
後書きには、作者論的に、太宰の精神の自叙伝である、みたいなことが書いてありました。違うと感じたからわざわざ書くんですけど。
ここまでフィクションとして高度に構築されたものを、作者が自らを述べた自叙伝として読むには無理があるよなぁと。それだけです。
しかし、『こころ』並みに読まれるのはわかる気がします。一時期には中高生の麻疹のようなものとまで言われてたらしいですけど。そりゃ飲み込まれるわね。
この人の言葉のセンス、言葉に対するセンス、が好きなんですよね。内容云々ではなく。
物語言説から物語内容は生み出されるらしいですけど、このレベルまでセンスもった人だと、どんな現実を書いても魔法になる。
そんなレベルの人が選んだ箴言集だそうで。つい。気づいたらレジに。
箴言集と言うと、旧約聖書の箴言(コヘレトの言葉)だったり、超訳〇〇の言葉シリーズが思い浮かぶんですけど。もしくはロシュフコーとか。
個人的には、箴言集の類は、言葉を排して現実を暴き出すものと、言葉を弄して現実を覆い隠すものと、の二つに分けられると思っています。いました。どっちにしろ上から目線。
これどっちでもない気しますね。ただただ圧倒的脳内書庫から言葉を集めて、そこに意味を見出す(させる)、のような。むしろ箴言集かどうかを疑うべきか。
選語のセンスももちろん抜群で。短い言葉の中に、多く含みを持った言葉が並んでいます。これ、嫌いな人は嫌いだろうな。マザーグースに楽しみを見出す人は大好きそう。
「名言」などは所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨てていく、といった態のものであることを知るべきだろう。と、後書きにはあります。何かに固執しがち。