やまさんの読書ブログ

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言葉について

ども。

 

毎日更新は途絶えたけど何かしら書きます。

毎日更新みたいなドグマに囚われてはいけない。

一日に二三回更新したりしなかったりしような。

 

 

時事ネタついでの文章。

見事に平田オリザさんが燃えたなぁという話と、

レポートしんどいなぁという話を繋げて書こうと思います。

 

 

レポートしんどいんですよ。時間がかかる。

何に時間がかかると思います?内容考えることじゃないんですよ。

 

 

今出ているレポートは、授業内であつかった問題から1つを選んで、自分の意見を200~300文字程度で論じるレポートが多いです。もしくは教科書の該当章のレジュメ1000文字。

 

一つの意見を、ちゃんと説明して書いたら1テーマ200文字で足りるはずがないんです。

200文字で説明できるレベルのこと書いてもらわないと困る、という採点・授業作成側の事情なんでしょうけど。

ゼミでも、「この内容は修士でやるような内容だ」とか、「このテーマを扱うのに学部生の卒論文字数では難しくないか」みたいなセリフをよく聞きます。

思ったよりも細分化しないと厳しいみたい。まぁ学部生ですし(?)

 

 

レポート書いて一番時間がかかるのは、文字数に収まるように文章を圧縮することです。

言い換えるなら、文字を書く側の立場になった時、文字数や媒体に合わせて文章を希釈・加工するのが一番難しいんです。

 

 

平田オリザに寄せられる一見まともなクソリプの数々。

 

平田オリザさんの炎上の話。

この記事が炎上してるみたいですね。

https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2020/04/0422.html

一番炎上しているのは、

「製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね。でも私たちはそうはいかないんです。客席には数が限られてますから」

の部分です。

この発言に、「製造業を下に見ている」を読み込んだ人が、「自分(芸術)を高尚だと思っていやがる」みたいなのを対比して、さらに「過去インフラに回るはずの予算を芸術支援に奪い取った経歴」「製造業はただ機械的に作って売るだけじゃない」「経営の苦労がわかってない」「世間と感覚が乖離している」「朝日や民主と仲良し」みたいなのがくっついて連鎖的に炎上しているみたいです。

冷静に考えたら「芸術を高尚と…」以外は全部クソリプの類だと思うんですけど。めんどくさいねTwitter。

 

確認。

この発言は単純に非難されるべき発言だと思います。不適切な例示。

「芸術にも支援の手を」を、「おまえよりおれにかねをよこせ」に卑小化してしまったのだから、もちろんです。なお、限られた予算の中から分配するのなら、実質意味するところは一切変わりないわけですが。

ちゃんと説明しようとすると難しかったんですけど、発言の意味や内容はともかくとしてイメージは相当悪化させたと思います。業界を後ろから狙い撃ちしたようなもんですし。

 

 

この発言は、「まだ再生の可能性がある製造業と違って、芸術系は一度滅んだら終わりなんです」くらいに翻訳するのが妥当だと思います。これから「製造業ずるい」「高尚な芸術」を読みくだすのはちょっと無理がある。

というか、平田オリザが製造業(の経営)の苦労を知らないはずはありません。借金してまで劇場経営してたんだから。しかも、演劇に必須の照明や道具類のスタッフさんに至っては大体が個人事業主か小規模会社です。ただでさえ儲からない業界でその人たちと仕事して、さらに存続のために仕事してるんだから。

お前俺らの苦労なんか知らんやろ!は、さすがに他人のことを下に見すぎでしょう。悪い語法やでほんま。

(このツイートしてるうちの何人が経営の苦労を知っていて、製造業に携わったことがあるのか、にもちょっと興味あります。製造業を下に見て、平田オリザを押し上げて、さんざん批判してるところの分断を作りだしてるのは君らちゃうんかいな。)

ここらへんのツイートは、(内容を無視して)自分の独断を読み込んでいるだけという点でクソリプと一切構造が変わりません。

「ただ炊くだけの白ご飯もいいけど、手間のかかるパンも食べてほしい」に「ご飯のことを差別した!」とか「パンなんか食べるような上流階級様にはコメの味は分かりませんや!」とかいってるのとあんまりかわりがない。元の記事はこうならないようにお願いする内容でしたけど、そもそも記事は読んでない。

 

 

 

いわゆる書き言葉(平田オリザはインタビューなので話し言葉でしたけど)って本当に難しいんです。レポートと同じで。

字数制限や媒体の性格に合わせて、出来るだけ明確かつ誤読されないように、わかりやすく圧縮しないといけない。書こうと思ったらいくらでも書けるけど。

しかも、文章とテレビとではスタイルを変えなければなりません。自分のスタイルと、発表のスタイルとのすり合わせ。私だってこのブログみたいに自己完結短文で喋ったりしませんし。書きやすい・読みやすいからこうしてるだけです。

 

 

書くことの不自由さ。

こういうことはおそらく、文章を書かないとわからないことだと思います。

「文字・言葉として外に出されたものは本来の(その人の)文体をまげていること」とか「自分の文体よりも発表先のメディアのスタイルの方が優先すること」とか、ひいては、「書き言葉は読み言葉優先で加工されること」です。

言葉を使えるために私たちはコミュニケーションを取ることができますが、

言葉を使えるがために私たちは相手の発言を内容でなく、自分のイメージで理解してしまいます。わかりにくいなこれ。

相手が加工して意味したかった内容はともかくとして、文章に書いてあることは分かってしまうがために、一部だけを読めば自分の好き勝手なイメージを読み込んで語ることができてしまう、という意味。

自分の理解の範疇に合わせて理解できてしまうし、その先に行く=相手のレベルに合わせる必要は無い。自分の世界にひきこもり。

これ自体は言葉システムの仕様なので別に良い悪いもないです。念のため。

クソリプ」はこういう欠陥仕様の産物ですよね。

自分のイメージが先行して、相手の言葉を理解せずとも返事っぽい何かができてしまうし、対話っぽいなにかが成立してしまう。自分の妄想の産物であるけど、本気で対話だと思い込めてしまう。

 

わかりやすかったのでAmazonのレビューから引用します。

 

 これのレビュー。


著者は

一般に、子どもに接するときの優れたコミュニケーションとは、子どものコンテクストを受け止めて、さらに「受け止めているよ」ということをシグナルとして返してあげることが肝要だと言われている。

と述べる。しかし、最終章において以下のようにも述べている。

彼らは口を揃えて、「いい子を演じるのに疲れた」と言う。私は演劇人なので、そういう子たちには、「本気で演じたこともないくせに、軽々しく『演じる』なんて使うな」といった話をする。
「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちに、「もう演じなくていいんだよ、本当の自分を見つけなさい」と囁くのは、大人の欺瞞にすぎない。

著者は「いい子を演じるのに疲れた」という子どもたちのコンテクストを受け止めてはいない
いい子を演じることにつかれた子どもたちの苦しみを理解する気がない。
私はこの著書の底流に、著者の断定的な、コミュニケーションに対する熱い思いゆえに妄信的な思想を感じる
戦争やワールドカップ、いじめの話をいやに持ち出して、断定的に論を進めているのが鼻につく

これなんか、「「いい子を演じるのに疲れた」が、お仕着せの言葉を使えてしまっているだけで実質のところあんまり「演じて」ない」とか、「演劇人としての平田オリザが取る態度と優れたコミュニケーションとして取らざるを得ない態度はまったく別」みたいな深さを持った話だったと思うんですけど、「相手のコンテクストを無批判に受け入れるのが規範だ」みたいなイメージに全部飲み込まれた良いレビューですよね。

文字として追えるし、追った単語一つ一つの意味は合っているけど、自分の理解の範疇から一切出る気はないレビュー。

 

 

「文字・言葉」は一見、目に見える客観的な何者かに擬態するが、その実自分と分離しがたい、どころか隙あらばこちらを支配しようとしてくるような恐ろしい存在、みたいなことが言いたかった。これをわざわざ長い文章に加工する意味なさげなのでそのまま置いておきます。支配された結果は引きこもりと妄信ですね。

 

真に私たちを分断しているのは言葉なのだ!とか言っとけば100RTくらい来そう。