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ども。
大罪人でございます。ブログの毎日更新を志すも、1日で終了させるタイプの。
思いつきで行動するにもほどがありますね。
それでもふてぶてしく更新しようと思います。
義務にしたら楽しくなくなりますからね(露骨な逃げの姿勢)
今年が始まってからというもの、おそらく書店に行き続けています。昨日もそうでした。
昨日は梅田駅周辺の大型書店に。
となると思いつくのが、JR駅ビル内の蔦屋書店とNU茶屋町内の丸善・ジュンク堂書店。
片や巨大なワンフロア、片やビルの5階分。見るには飽きませんね。
梅田蔦屋書店。
ビルの9階に会って、エスカレーターから入れば目の前にスタバ、エレベーターから入れば目の前に雑貨屋、と、あんまり書店っぽく無いスタートです。カジュアルですね。
長方形のフロアの中心に、円形にスタバと座席があって、それを更に大きな円で囲むように本棚が展開されています。
そして、その円の外側には、柱を使って雑誌が配置され、壁際にまで本が並んでいるところもあります。外周の半分くらいかな。
残りの外周は、多種多様な別店舗(雑貨屋、文房具、マッサージ、etc…)。そして、その別店舗とリンクする本が、美術館の企画展のようにフィーチャーされて配置されています。
従来の書店と異なる点を探せば枚挙に暇が無いんですけど、一番推せるところはその整理された雑多さですよね。軽々しく多様さって言いたく無い。
本から広がる現実まで思い起こして。とか言っとけば許される気がします。
場所柄だけに、ビジネス書が強いですね。その上、見た感じでは、どのジャンルでも新刊に強いでしょうか。
また、学者向きでなく、初心者〜中級者に向けた本が多いようにも見受けられます。まぁ滅多に買わんしな。買う側としても。
何か新しいものに足を突っ込む時に、触りや走りの本を探すために来ると良いのかな、と思います。
画期的なことに、書籍の各ジャンルにコンシェルジュを設けているので、その人たちに聞いてみてもいいかも知れません。私は聞いてないけど。聞いてから書けよ。
書店と言うよりは、エンタメとか、美術館とか、そんなものに近いのかなと思います。単体の書店とamazonが競う時代に、先ずは書店に来て、楽しんで、慣れてもらうことが先決ですからね。時代だ。
ここまで、日記の程を装った長い前置きでした。まだまだ続くんじゃよ。前置きが。
この梅田蔦屋書店、武雄市図書館の例もあってあまり足運んでなかったんですけど、ある企画をきっかけに定期的に通うようになりました。
それが、「読書の学校」です。
現代に生きる私たちに関連するテーマを設定して、それに関する書籍を三冊、蔦屋書店と出版社が選書して展示・販売します。
まぁ私の厨二心をくすぐるテーマが多いのも確かなんですけど。元々相性が良いのかも。
選ぶ出版社も中々攻めた選び方してるなぁと思います。そこも好き。
出版される本は減ったとはいえ、それでも本が溢れる中、自分で選ぶよりは、専門性の高い人にオススメされて選びたいところですよね。多分。リスク的に。高いしな。
そんな企画が自分にベストマッチだったので、展示が変わるたびに行っています。
本日はその中から。今は第三講なんですけど、一個前の第二講で紹介されてた本です。やっと前置きが終わったよ。お疲れ様でした。
まごう事なきジャケ買い。今ではもう覚えてないんですけど、読書の学校の帯に載ってた推薦文も素敵でした。
文化人類学らへんの本なんでしょうかね。エチオピアのゴンダール記、です。
そんな分類はそれとして、単純に読んで面白いんです。
とりあえずフィールドワークしてみたり本書いてみたりするのは良く見るんですけど、この本の特徴はその語り口。ここまで魅力的に、かつ語り分け、られるこの人の文章力よ。
15章くらいあったと記憶してるんですけど、語りの形式をそれぞれで使い分け。時には読者と物語の間に語り手が強く現れ、時には語り手がほぼ透明になって。効果的にそれを行う事で、エチオピアやゴンダールでなくて、関わったその一人の人間の人間性すら感じられるようです。会ってないのにね。
この手の本、内容はともかく読んで面白く無い本が多かったんです。それだけに強い衝撃でした。上から目線にもほどがあるな。多方面に殴りかからない。
■
ども。
明けましておめでとうございます。
今年こそは、あのころのように、と毎日更新を志すもお正月の雰囲気にのまれて
既にマイナス三日坊主となってしまいました。
大体こんな感じですが今年もよろしくお願いします。
記事のネタだけは勝手に思いつくんですけどね。
働いて帰ってパソコンを開いて文章に昇華させるまでの関門と自堕落が。
2018年に読んだ本とか紹介しても良かった気はするんですけど。
またいつかします。どうせやらない。
新年早々本を買いました。昨日。蔦屋書店で。本屋初め。
すごいですね。蔦屋書店だけは平成の先を行ってましたよね。まだ平成ですけど。
東京行ったときも代官山蔦屋書店までわざわざ行きましたね。
緑生い茂るオシャレな代官山の雰囲気に飲まれかけてたのですぐ帰っちゃいましたけど。新幹線の時間もあったか。
代官山店は洋書めっちゃ強くて、みてて楽しかったです。お仕事らへんのところで何冊か買いました。
例えばこれ。
『~は楽しい!』シリーズ、4冊あって、残りの3冊は邦訳されてるんですけど、
カクテルだけまだ邦訳されてないんです。手に入れた。フランス語だけど。
たま~にフランス語の単語とか調べながら読んでるんですけど、もしかしなくてもそろそろ翻訳されそうですね。
まぁ、その時はその時で。
このシリーズ、良いんですよ。
どうやら教科書のつもりで書いているらしく。但しフランス人向け。
『ワインは楽しい!』なんかは、比較的イントロダクション控えめで、品種と産地の一覧にめちゃくちゃ力の入った構成となっています。
モニターぐらいある本の1ページに1産地・品種ですからね。
広辞苑といい勝負な厚み。重み。
この本、おそらく射程は、ワイン初心者(一般的な真実・迷信の類を知っている)。
迷信の排除と、再教育に近い懇切丁寧なイントロダクションです。
一番伝えたいことはティスティングの楽しみっぽいよな。
だから網羅的に乗せるんですかね。
対して、『ウィスキーは楽しい!』は、日本の入門本とあんまり変わりません。目次だけなら。
本が大きい分、図版が多く、間も取ってあるので読みやすいですね。
そして、見開き1ページをウィスキーに関わる単語、人物、戦略にいたるまで使います。すごい。ホームバーの造り方に見開き使ってる本なんか初めて見た。
情報濃度は高いんですけど、本の大きさで中和してるところありますね。
読みとおすだけならそこまで時間かからないと思います。
このシリーズ、自ら「教本」と名乗るだけはありますね。
飲んで楽しむ、あるいは自宅で作って楽しむなら、
この1冊でたいていのHow toや知識欲は満たされてしまいそうです。
適当に昨日買った本でも載せとこうかと思ったんですけど、
適当に書き勧めたら昨日買った本のことに触れずに進んでしまいました。怖いね。
そういえば、このシリーズ良いんですよとか言いながら、明確に答えだしてないですね。
ぜひ読んで見つけてみてください。そんな感じでどうぞ。
まさか、適当に書いただけとかそういうわけではないd
■
ども。
物語論するとか言っときながら、最近になってやっと、イーグルトンの『文学とは何か』を読み始めました。
古本屋周回って中々時間と手間がかかりますね。
カードゲームしてた頃は、雑多に詰め込まれた何千枚のカードから背取り?とか出来たんですけどね。
いかんせん媒体が大きい。かつ多い。
結局、大学生協の5%引きで妥協しました。
お金と時間のバランス考えて生きてきましょうね。そんな感じの教訓。
近況。
昔からずっと耳が遠くて、面白聞き間違いを多発するんです。
最近はATMの自動音声から還付金ならぬパンプキン詐欺を生み出しました。
ポップな語感でいいですね。
ビジネスに歪められた現代ハロウィンに対する風刺、みたいな感じで適当な現代アートにすればいいと思います。
ジャックオランタンに使うカボチャ自体、そもそも食用でないので存在が詐欺みたいなところはあります。
というか、元の伝説では蕪なんですけど。パンプキン詐欺。
今日の本。
マンガでわかるジャズ: 歴史からミュージシャン、専門用語などを楽しく解説!
- 作者: 山本加奈子,及川亮子
- 出版社/メーカー: 誠文堂新光社
- 発売日: 2018/09/18
- メディア: 単行本
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おしごとのつごうじょうジャズの事は知らなければならないなと。
普段聴く音楽らしい音楽はクラシックや宗教曲なので、まぁ分からないんですよ。
それでも何とか知ろうとして、ジャズがわかる本を探していました。
この本に至るまでの経緯。
アプローチ1。
音楽的な形式として理解しようとする。
撃沈。クラシックみたいにしっかり、形式が決まってると思ったの、ド偏見でしたね。
どうも、テーマとアドリブで構成されているらしい事を理解する。
アプローチ2。楽譜。
ジャズ・スタンダード・バイブル セッションに役立つ不朽の227曲 CD付き
- 作者: 納浩一
- 出版社/メーカー: リットーミュージック
- 発売日: 2010/11/15
- メディア: 楽譜
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俗に言う黒本ですね。
見事にテーマとコードしか書いてない。
そりゃそうですよね。これからアレンジしてソロ弾くのか。すごいなジャズの人。
余談。
黒本も、賛否両論みたいですね。楽譜という媒体の特性上、ジャズの各曲の様々な調のバリエーションから選別した一つのコードでしか載せられ無いからって。
ここら辺、『讃美歌』から『讃美歌21』への移行に物申すみたいな言説と似たところがありますね。選曲の問題点の話でね。
選別する以上、何しても不正解なので、編集者が針の筵ですね。厳しい仕事だ。それはともかく。
アプローチ3。まんが解説本。
この本はそれに加えて、時間から解釈という強力な武器を備えており。
批評や解釈の時に、時間と空間の二軸から物申せば大体それっぽいことが言える事を習っているので、まぁ間違いなかろうと。
なんとなく分かってきました。
一見、裾野が広くて網羅しにくい分野に見えますけど、ある程度の規則性はあるんですね。
流れさえわかればこっちのもんです。
後は聴くのみ。
百聞は一見にしかずとは言えども、その百聞から何をか感じられる感性を持ち合わせていないもので。
ちゃんと勉強しましょうね。
たまに、「まんがでわかる…」を極端に敵視する人と会います。親でも殺されたんかってくらいに。
確かに、本物に触れた方が早いのはその通りなんですけどね。
哲学書とか、『罪と罰』とか、本物に触れて一読で何か理解出来たら化け物ですから。研究に寄与してくれ。
まんがでシリーズで自分の中に目次を作ること、大いに良いと思います。
禍根が覆い隠せないほど噴出してきたのでこの辺で。
印象派と美術のはなし
ども。
この本についてです。
帯に、日本人はなぜ印象派が好きなのかわかる!みたいな文言があって、
面白そうやんけ、と思って買いました。
10ページ目に既に理由書いてましたね。そんな出オチ。
きっと一冊かけて論証するんだろうな的先入観。
実際、印象派って人気みたいですね。印象で判断できるお手軽さもあり、他の絵画みたいに読み解く必要もなく楽しめ。現代美術ほどの背景も求められず。
美術には元々興味があったので、大学で近代芸術史のクラスを取ってました。びじゅチューンで授業する面白先生。
学部にも、美術と倫理を専門にしていらっしゃる先生がいるので、なんとなく美術と縁があります。
玄関にマティス飾ってるような家に生まれたからですかね。
一見いいとこのお坊っちゃんに見えて、マティスが野獣派の画家というところがポイントです。
受けた近代芸術史の通り、この本の1章もそんな内容で。
印象派関係の美術史をさっとさらう、みたいな。
2章から後は、印象派の鍵になるマネやモネ、ドガ、らへんの人たちの人物史を絡めながら、1章の内容をより詳細にさらって行くような。
二重に同じ内容さらってくれるのほんと分かりやすくて助かります。深度と観点も変えて。
授業では、芸術史に画商絡めた話教えてもらってないのでそこら辺が特に面白かったです。
所属してる研究会で最近、芸術の価値がいかにして決まるか、みたいなディスカッションをしたのを思い出します。金ないと行きてけませんしね。
ずばり、この本の素晴らしいところは図版です。
文庫なのにカラー。
本文の前に引照付きでまとめてあるので導入にも最適。
図版と文章の混ざった読みにくさもなく。
引照も、一回引いて終わりではなく、本文中に何度も別の文脈で押さえられ。
この人、わかってるなぁ。
そんな一冊でした。
ちくま文庫で裏表紙が敬体なのも珍しい気がします。
深い夜の街
ども。
タイトルの通りです。
Twitterのbioには「人嫌いで人間性に欠ける」と書くぐらい人間苦手な私です。
でも町は歩いてみたいしもっと冒険してみたい。
そんな人にとって、深夜の街は人間全然いなくて楽しいんですよね。主に1時ごろ。
終電で帰った人がコンビニから退散した当たりの時間帯です。
普段人でごった返してる駅前はゴーストタウンと化し、
百人以上住んでるのではないかとばかりのメガマンションからはほぼ灯りが消え。ほぼ。
街並みはそのままにして1人/1hぐらいしかすれ違わない環境になります。
そんな街を散歩するのが好きです。
どんなに嫌なことがあっても4、5駅分くらいずっと歩いてれば冷静になりますよね。
体力的にはともかく。さすがに疲れたわ。
電車で1時間程度なら徒歩圏内と自称する私でもしんどいものはしんどいです。
そろそろ自転車買おうかなとか思ってもいます。止める場所で悩むんでしょうけど。
深夜の道路を高速で走ってみたりしたいですよね。流れていく夜景と光的な。
夜。いいですよね。
昼の境界を越えた先を感じます。
深夜1時も越えて、太陽が昇るまでの時間。短いようで長いし、長いようで短いですよね。
ひとたび日が昇れば空は紅に染まり青になり曇って雨が降り時には雷が降りと忙しいですけど、夜の間はただ真っ暗闇なだけですからね。せいぜい雨風の音ぐらいですか。
そういえば最近の夜空って明るくないですか。雲に街灯りでも反射してるんですかね。それはともかく。
そんな限りある永遠みたいな時間が好きです。夜は人を詩人にする。
元々は月の話しようと思って書き始めたんですけど、また今度にしましょう。長いわ。
上の段落みたいな感情をもう少し伝えたくなったので詩を一篇。
真夜中にひとり コップに 氷をいれて ソーダ水を飲む クーラーの音が うしろでしてる ビルのあかりがひとつずつ消えて もうすぐ世界はまっくら でも くらくなるほど 残った光りがあかるくて 見ている間に また夜があける /銀色夏生「熱帯夜」
— ひとひら言葉帳 (@kotobamemo_bot) 2018年10月5日
選び取られた現実(の状況)の提示でしか表されない感情がある、と思うんです。
名前がついてる感情はそれさえ言ってしまえば終わりなんですけども。
私はこの詞から、上段落みたいな感情を感じます。強烈なアンビバレンツ、だけどどこかノスタルジック、そんな。意識高そう。
そういえば読書ブログなので本の紹介をしよう、と思ったわけです。
ものの見事に『夜と霧』しか出てこなくてですね。読んでへんくせに。
いっそamazonの検索窓で、カテゴリ:和書に指定して「夜」って入れたらどんな本が出てくるんだろうと思ったわけです。
そういえば、このブログでは、はてなブログのamazonリンク機能を使って書いてます。アフィリエイトは入れてないので別の人から買ってあげてくださいね。
ものの見事に『夜と霧』ですね。だから読んでへんって。
次に出てきた本。
懐かしいですね。
おそらく中学生時代に図書館で借りて読んだよなと記憶してます。
でも今覚えてないってことはつまりそういう事なんでしょう。
何事にも時がありますからね。読むべき時に読むことになるのだと思います。
当時はあまり受け付けなかったと記憶してるんですけど、最近有頂天家族シリーズが面白く読めたので、おそらく大丈夫でしょう。最近どころか2年前だよ。光陰矢の如し。
次。
こんな本ありましたね。懐かしいわ。
つい最近書店で平積みされてて、場所によっては今でも平積みされてるんじゃないでしょうか。私のウォッチ書店では一件だけ平積みのままです。
Twitter詩人、いますよね。あまりTwitter寄り付いてないので、中高生から怒涛のRT食らう恋愛系の人しか思いつかないんですけど。
しかし、詩の機能、興味ありますよね。なんなんでしょうこれ。
この人のTwitterはフォローしてないんですけど、フォローしなくても動向が分かるほどRTといいねで流れてくるんですね。
この詩に深いなとしか思わない自分の浅薄さを思います。
試し読みはこちらから。
そろそろ収集つかなくなりそうなので次の一冊で最後にします。
作中時間は夜じゃなかった(夕暮れでしたっけ)と記憶してるんですけど、表紙も相まって、自分の中でのイメージが雪の轟々と降る夜だったので。こんなオチかて。
辻村深月、なかなかやばい人だなぁと思っていまして。語彙力が最近の若者かな。マジヤバい。
この人の書く文章、と自分が合わないから読まない作家さん、なる存在が大体の本読みにはいると思うんです。ちなみに私は村上春樹。
辻村深月のヤバいところは、作品単位でそれを生み出すことです。自由自在かな。
ついったとかだと『ツナグ』で辻村深月作品読み始めて二作目でギブ、なんて人が多かったように思います。むしろ私『ツナグ』合うんかな。
しかし仕方ない面もあって。
この作品、元々ある程度小説を読み慣れてないとしんどいとは思います。
語りの視点が8人+語り手で揺れ、かつそれぞれの短編が挟まれつつ遅々として本編が進んでいく、なんて作りなので、少し時間おいて忘れるともう読めなくなるんですね。
とてもじゃないけど、小説読み始めた人には進めにくい作品かなと思います。
長くなってきたので強引に断ち切ろうと思います。では。
■
ども。
近況報告も兼ねて。
誕生日を迎えて、どう言い訳しても大人としか言えないような年になりました。
いまだに未成年と間違われますけど。ここまでくると見た目服装が子供っぽいってか。
波乱万丈の一年間をなんとか生存したのでほっとしています。いました。
学業と仕事の2足のわらじのうちは楽できないんですよね。そのうえサークルが被ってくるので手すら足りない。
順調に行けば後1年半、人生の夏休みを満喫していこうと思います。ほんと忙しい夏休みだこと。
前の記事を見ると、物語論に興味があるようなことを書いています。
この物語論と呼ばれる分野、大きく分けて2つの領域に分かれます。
一つは、物語哲学と呼ばれる、理論的な分野。
「誰の視点」から、「いつ」語られた「どのような」物語か、なんて、物語に切り込む理論を筋立てるのが彼らの役目です。不勉強だった場合に備えて謝罪の意を示します。
もう一つは、物語論こと批評の分野。実践。
実際に書かれたテクストに、理論と自らの立場から切り込んで新たな読みを示します。
正直この分野、一体何の意味がとは思うところです。即物的に役立ちはしないよなぁと。当たり前ながら。
新たな読みを提供し、テクストへの見地を深めて、どうするんだろう。これ怒られるやつかな。
何をして物語論を学問分野足らせているか、わかるくらいまでちゃんと勉強しようと思います。
久しぶりにブログを更新しようとしたきっかけです。芥川賞受賞したそうですね。
どんどん話題になってるけど、読む時じゃないよなと思ってて手出してませんでした。
というか恐らく読まないつもりでいました。来世で読もうとかなんとか。
読んだきっかけは、本棚の整理で出てきたこの本のことを思い出したからです。作者が同じ。
この本、『コンビニ人間』に負けず劣らずの厚さなんですけど。薄いと言いたい。
内容が次元超えた激しさなんですよね。少ない語彙を捻りだす。
取り敢えずのテーマは家族物語になるんでしょうか。
家族の愛が得られない子供の話、なんて筋は、最早チープです。
私たちの生きる世界の方が百倍現実的ですからね。
もう、フィクションの小説で何かを問えるほどのテーマでは無くなりつつあります。
しかもこの薄さかよ、と思いながら読んでたんですけど、電車の中で読み進むうち、いつしか怪しげな雰囲気だけを感じさせながら物語は進んで行きます。
明確な伏線や、転換点があるわけではないけど、何をか感じさせるような。
そして、その雰囲気を纏ったまま進む文章は終盤のある一文で本性を表します。
そこから先は怒涛、まさに私たちの生きる世界すら変える世界観へと達します。
哲学的、に似た雰囲気はあるんですけど、哲学でも無いですよね。かと言って現実で打ちのめすわけでもなく、ただただ世界観が変わるのみ。
この本、2件しかブログ書かれてないのが意外すぎて。ニコ動で言えば#もっと評価されるべき 作品だと思います。もしくは作者。芥川賞取ってましたね。評価されてるわ。すごい。
これは別件ですが、この本を読んだ人が、この結末をハッピーエンド系ととるかバッドエンド系ととるか、に興味があります。読んだ人、いらっしゃったら是非教えて下さい。
長い前置きを経て。本題。『コンビニ人間』。
帯には「現代の実存を問う」なんてコピーが書いてありますけど。どの層に訴えかけてあのコピーなんでしょうね。80年代の古き良き理論武装を感じます。哲学アレルギーのあなたにも簡単にわかる「現実存在」。
芥川賞まで受賞してしまえば、ネットには意見感想批評の類が溢れかえります。そんな文章群をみて、この作品に「反抗期み」を感じたあなたが正しい。と思います。私は。
余談。
芥川賞受賞作品で面白さがあるのって珍しいですよね。一瞬直木賞と間違えたかと思いました。
この本の文学的技巧等々についてはよくわからないんですけど、このテクスト、あまりに読者が一言申したくなる社会?問題が盛りだくさんなんですよね。念のため、「良くわからないけど馬鹿ほど真理に近い」系の意図は無いです。その信仰は嫌い。
おそらく、「普通」までを問われて一切共感出来ない読者はいないでしょうよ。大体の読者が、無意識に、何かしらを読み込んでこの本に向き合うわけです。そして、書かれた以上の何かを読み出す。
読者を飲み込んで、書かれていないことまで読み出させるほどの裾野の広さと、力をもった物語ってすごいなと思います。特に論拠はない。
余談その2。
主人公、合理的です。対比すべきは感情でしょうか。感情の余地を感じさせないほどに合理的。
多分、生理的に、この主人公を受け入れられずに読破を断念する人がいると思うんです。
まともに道徳を積んでいれば、公園で死んだ小鳥を焼き鳥にして食べようとする3歳児(でしたっけ)は受け入れられないはずです。ちゃんと、家族の好物が焼き鳥であることを考慮したとしても。
でも、主人公の方が現実的だと思うんですよね。
ある一つのきっかけから、家族全員の幸福を願うか、道徳的感情を抱くか、私は前者が自然だと思うんですけど、いかがでしょう。自分で言ってて無理な気がしてきた。前者を選択する余地くらいにしときます。
哲学書を読む際の必須スキルの一つに、実際に使われている文脈ではなく、文章上の論理関係からその単語の意味を判断する、というようなものがあります。これがないとカントが読めん。
そんな、主人公から哲学に通じるものを感じたというだけの話です。話が長い。
今学期、特に倫理について学ぶ授業が多いです。そこら辺について考えてみようと思います。
■
ども。
どうも物語論が自分のしたいことに最短経路らしく、大学ではその勉強をしています。
しかし勉強していると、読み書きの意味が分からなくなってくるよなぁ。虚無虚無。
どこぞのイスラームが国境の国では、職業小説家がいるにも関わらず、小説が読まれないんですって。
なんでも、コーランに全て真理が書いてあるのに、被造物が書いたものから真実を知る必要はないからだとか。
意味や因果を見出す方がパラダイムの周回遅れなのかもしれませんね。
パラダイムってこんな意味で使わない気がするな。特定の時代の特定の地域の常識って意味で書きました。
今年も恒例の演奏旅行を終えました。
今年は立案引率だったので、精神的には楽でしたね。人任せが得意でないので。
その分計画立案交渉引率する手間かかったけどな。実質手間なのは引率なので。
なぜか生徒が行程立案することになってて驚きました。プロに丸投げ。
それでも反省点の塊なので来年に向けて、記録しておかないといけませんね。
素晴らしいことにマニュアル完備なんですけど、原案が10年以上前、かつ口伝併用なのでいい感じにマニュアル書き直さなければね。マニュアルあるなりに困ることはあります。
演奏旅行のお供。
これこれ。新潮社の、黒い表紙に赤い箔で文字が書いてあるやつ買いました。
表紙買いはありますよね。
もう一冊。
これこれ。寺山修司。「ことばを友人にしよう」。
表紙と人物イメージがあんまり一致しない感じで逆に気になりました。何を狙ってこの表紙なんでしょう。
三冊目。読んでないから省きます。
思想系の人で、フランス第x大学に留学してたら割と個人的に文章が好きなのではないかと言う推論を。読めてないけどな。忙しかったんじゃ。
太宰治も寺山修司も、高校の時に近代文学が専門だった先生に習ったのである程度は知ってました。専ら歴史秘話ヒストリア。
世間のイメージみたいなものの提示もあって、かつそうでない例の提示もあって、受け取り方は自由、みたいな先生だったのでありがたかったと思います。無駄にイメージがつかなかった。
そのおかげでと言うかなんというか、太宰に鬱々しいイメージついてるのがよく理解できてなかったんですよね。授業では『ヴィヨンの妻』『桜桃』を扱ったので。
読んでよくわかりました。これはあかん。
よく使われる表現に、「通奏低音のように○○が響いていて…」がありますけど、基本的にこの本通奏低音で構成されてますよね。メロディー不在ハーモニー不在。倍音構成はかろうじて変わる、みたいな。
感想書くふりして自分語りする輩が嫌いなのでそこらへんの言及は控えますけども。
後書きには、作者論的に、太宰の精神の自叙伝である、みたいなことが書いてありました。違うと感じたからわざわざ書くんですけど。
ここまでフィクションとして高度に構築されたものを、作者が自らを述べた自叙伝として読むには無理があるよなぁと。それだけです。
しかし、『こころ』並みに読まれるのはわかる気がします。一時期には中高生の麻疹のようなものとまで言われてたらしいですけど。そりゃ飲み込まれるわね。
この人の言葉のセンス、言葉に対するセンス、が好きなんですよね。内容云々ではなく。
物語言説から物語内容は生み出されるらしいですけど、このレベルまでセンスもった人だと、どんな現実を書いても魔法になる。
そんなレベルの人が選んだ箴言集だそうで。つい。気づいたらレジに。
箴言集と言うと、旧約聖書の箴言(コヘレトの言葉)だったり、超訳〇〇の言葉シリーズが思い浮かぶんですけど。もしくはロシュフコーとか。
個人的には、箴言集の類は、言葉を排して現実を暴き出すものと、言葉を弄して現実を覆い隠すものと、の二つに分けられると思っています。いました。どっちにしろ上から目線。
これどっちでもない気しますね。ただただ圧倒的脳内書庫から言葉を集めて、そこに意味を見出す(させる)、のような。むしろ箴言集かどうかを疑うべきか。
選語のセンスももちろん抜群で。短い言葉の中に、多く含みを持った言葉が並んでいます。これ、嫌いな人は嫌いだろうな。マザーグースに楽しみを見出す人は大好きそう。
「名言」などは所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨てていく、といった態のものであることを知るべきだろう。と、後書きにはあります。何かに固執しがち。
色眼鏡を外して
ども。
事の発端は一週間前。
小さい頃に暗闇で、寝転んで本を読む癖があったために、右目の視力がマイナス3桁台なわけです。
メガネがないと生きられない身体。
なのにメガネを失くす。
ベッドサイドに置いていたものが忽然と消えている。
しばらく探しても一向に見つからない。
講義があるので仕方なく大学へ向かいました。裸眼のまま。不安にすぎる。
コンタクトなりレーシックなり、も選択肢としてはあるんですけどね。
自分の身体に何か、他の物を入れるのが怖くて仕方ない。
カラーレンズをファッション感覚で入れ替える人が本当に異星人に見えます。怖くないのかね。
なんとか大学へ向かいました。
普段慣れた道が全然見えないんですよね。
例えば、信号。
辛うじて、色は知覚できます。冗談抜きで赤のイデア。
横断歩道が見えない。白と黒の差は辛うじてつく。そんなレベルです。
そんな感じで1日を過ごしました。
そんな中で気づいた事。
今日行った古本市でフランス印象派の画集買ったんですけど、例によってAmazonになかったので似たものを。
大学の講義で芸術史を一通り受けてから、印象派らへんが好きになりました。
講義で多用されるびじゅチューンが印象的。
それはともかく。
私は普段からパソコンやiPadを多用するので、メガネにブルーライトカットの加工をしています。
そんな中で、メガネを外して、みた空がとても綺麗だったんです。颯爽としていて。滔滔たる青。
これは紅。タイトルのセンスがものすごく好きです。
齢9歳にして売られた時から、年を経て買われるまでの吉原遊女の心持ち、ここまで鮮やかに想像できるかよ、というような。
そんな内容の本です。正直面白かった。新人賞に文豪が殴り込みに来たような。
10年かけてて全く気づかなかったんですが、どうも、レンズ自体が黄色に着色されていたようで。
全ての青みがカットされるんですね。視界が透明で驚きました。
文字通りの色眼鏡。別に偏見云々の話ではなく。
今でもたまに綺麗な空を、メガネを外して見るようになりました。
浮かぶ子雲の仔細はどうやっても見えませんけど、空の青は良いものですね。
上の画集の表紙、モネの「日傘をさす女」のような空をいつか見て見たいと思っていたら、意外なところに答えがありましたとさ。メガネを外そう。
中3当時は気軽に読み進めましたけど、今読むと何度も立ち止まりますね。
思えば5年、たった5年でも、多感な大学生には色々思うところが多いようです。
『滔々と紅』もそうですけど、いつのまに文庫化したんでしょうね。昔読んだ本を再読したい。
狂ったように速読してたので。今読むと、どんな感想になるのやら。
後日談。
ベッドの最奥部からメガネが見つかりましたとさ。
どうやって落ちたかとんと見当がつかぬ。ありがたいありがたい。
セレンディピティ
ども。
セレンディピティという単語はご存知でしょうか。
端的に言えば、「(全くの)偶然から何か良いものを得る」というような意味です。
有名どころで言えば、ペニシリン発見のストーリーがまさにセレンディピティそのものですね。
カッコに入っているのは、私がその意味で使ってないからです。
「セレンディピティ」は、『セレンディップの三人の兄弟』から名付けられた造語です。
ホレス・ウォスポールなる政治家の造語。ゴシック趣味おじさん。
趣味が高じてイギリスにゴシックリバイバルなる嗜好を引き起こした立役者です。
ゴシックリバイバル(運動?)は、新しく「(ゴシック)ホラー」なるジャンルを生み出しました。
彼のおかげでこんな本が、それが変じていったSFまでもが、生まれたと言っても過言じゃない。
- 作者: ガストンルルー,Gaston Leroux,長島良三
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2000/02/25
- メディア: 文庫
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そんな人です。トリビアを披露したかっただけ。
ちょっと調べただけでも、この人からファンタスマゴリアとかに繋がってくるんですね。
文化史したい。
批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)
- 作者: 廣野由美子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/03/01
- メディア: 新書
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『フランケンシュタイン』なんかも、彼のおかげで生み出された作品でしょう。元を辿れば。
今批評の理論を学んでいるのでメモがわりに貼ります。いつか読む。
閑話休題。
そんな感じで、意図してセレンディピティみたいなものを引き起こすのが好きです。
いやいや神社でくじ引くのと一緒じゃん、
って話でもあるとは一瞬思ったんですけど、くじの内容を反映させないのであんまり意味がない。
し、そもそも有益を引き起こさないから当たらないとも思いました。言い訳。
今回のセレンディピティは書籍くじ。本題までに1000字を使う男。
500円払ってくじを引くと、対応した番号の本がもらえる、なんて仕組みです。
書いてて本当に神社の御神籤との違いがわからなくなってきた。紙の枚数増えただけの御神籤とも言えるよな。当たる本によっては。
どんな本も活かして見せるというスタンスではあるけども、自分の専門外かつ専門書が当たったら活かしようが無いわけで。ギャンブルギャンブルしてる。
本題までに1200字を費やす男。
書籍くじなるものを引いてきました。一応ギャンブルでない根拠はあったわけです。
一時期流行ったような本があるのがわかっていて、状態も美麗、かつ、ハードカバーなのに500円、といえば大手古本屋で下手なの買うより安いわけです。
しっかり自由価格本ってオチではありました。商売がうまい。
前述の特徴からして自由価格本じゃないと思ってただけに、少し残念。
本題の20文字に対して脇道で1400文字を書く男。
二回引いて、一回は金のキョロちゃん缶を引き当てました。特賞的ポジション。本じゃないんかい。
誰しも金銀のキョロちゃんを探した思い出と心残りがあるでしょう。私は20歳で消化しました。
まだ話を引っ張る。
もう一回。
こんな本が当たりました。
啓発本に当たるんでしょうか。田中将大箴言集になるんでしょうか。そんな感じ。
目次と内容があってなかったり、大いにテクスト性を感じられる素晴らしい解釈だったり、お前売るためにこの名前だしただろ、みたいな感じの本ではあるんですけど。
基本的には、啓発本には突拍子もないことは書いてありません。龍も呼ばなければ神にもすがらない。
「啓発本とか、当たり前のこと書いてるだけじゃんw」が真実です。中学生の時言ってた。
当たり前、を実行することが難しいんですよね。年経ってやっとわかったよ。勝手に。
ともすれば思い出すことすら難しくて、啓発本に頼る羽目になるんですけど。
それでも、当たり前をすることが大事なんですよね。多分。
ゼミの先生は、「当たり前を当たり前にするのが実力」って言ってました。
そういうことなんだと私も思います。さあ実力つけるぞ。2000文字。
やばい
ども。
やばい。
その一言に尽きます。
一応ながら「読書ブログ」の名を冠するブログの主なわけです。
中学高校の頃は10分で100ページ超を読み、1日で10冊をも読んでいたヤツが。
1日も欠かさず更新をして年間に365冊を紹介していたヤツが。
今や月に10冊読むか読まないか。 やばいやばい。
どうしてこうなった。
一つ。言葉を扱う環境が変わった。
ローコンテクストな文字を投げ交わして友人や文面と相対していた男子校時代とは打って変わって共学へ。
言葉の些細な機微を仔細に読み穿ち、果ては表情や手振りまでテクストと化すハイコンテクスト空間。
本どころか、現実に適応出来ずに暫く右往左往する。当然、読書にかけられる時間は少なくなる。
ただでさえ授業時間も内容も倍になった上にこれではね。
一つ。サークルにはいっ(てしまっ)た。
合唱を始めてしまったので、本より楽譜を読む時間が増えた。
ちゃんとした読み方がわかれば楽譜も結構読んで面白いもので、
曲についての歴史、歌詞のテキストの歴史や変遷、
和音の表す表情や意味、音楽修辞など、一曲の楽譜から読み出せるものは多く。
正直はまるよね。
まともに芸術・芸能と向き合ったことがないので余計に。
オウム真理教にはまった若者たちを佐藤優?が「勉強ばかりで毒(文学の)に触れておらず、耐性がなかった。」と『罪と罰』を紹介しながら言ってたのを読んだ覚えがありますが、そんなもんかもしれませんね。
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ハマるものには程々に触れて、程々を覚えておかないといけません。教訓。
一つ。単純に時間が無い。
自分を取り巻く環境が激変しました。
起きて大学に行って講義を受けて、空き時間はサークルの雑務に追われ、
大学が終われば仕事場へ行って、帰れば家事が待っている。
どこに本を読む時間があると。もしくはショートスリーパーになりたい。
物の見事に時間泥棒なんですよね。
娯楽へのハードルが異様に低くなった現代、要求される自制心は並大抵のものではありません。
青い鳥に時間を食われ続ける日々。
無くても困らないんですけど、あった場合に日常がこなし易すぎる。
リアルタイムで更新され続けるSNSは活字中毒者にとって絶好のツールなんですけどね。
無限に物語が読める。ただ、流れてくるのは政治とハラスメントとオタクコンテンツ。
時間をかけるに見合うかと問うまでもなく。
そんなこんなで本を読む時間が失せました。
やばい二つ目。
時間が失せども読書欲は失せない。
結果、積ん読が溜まることになります。
そろそろ部屋の床が見えなくなる。
でも講義を受ければ読むべき本が増える。
そろそろ床が抜ける。
やばい三つ目。
本棚が足りない。
本棚のためだけにレイアウトを変更し、本棚に本棚を重ね、果ては押入れを本棚に魔改造したやまさん家。
そこまでしても本棚が足りなくなってきた。すでにリビングの床が埋まりつつある。
本を売ることに多大な抵抗があるんですよね。
必ず読み返すので。
そんなこんなでやばいということを報告しました。生存確認も兼ねて。生きてます。