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ども。
1年前のことすら忘れつつあるので、記憶のためにまたブログを書きます。老後かな。
今は、大学がある日は午前から午後にかけて学校に行き、大学があろうがなかろうが午後から夜にかけて働いています。
大学に行くにしても、もう対面講義は一つか二つしかありません。
講義は今年から100分、通学に使う時間はその倍。移動時間が無くなるだけでどれだけ時間が余分に使えることか。
といっても、その時間もどうせぼーっとしてるかギリギリまで寝てるでしょうけど。寝たり起きたりするあの支離滅裂なまどろみの時間くらいしかリアリティのある楽しみがない。
蜂の物語について。
思い返してみると、主人公蜂が巣の掟から離れて自由にふるまえるようになるのは、まず言葉(声)を、次に秘密を得てからです。
だからなんだというわけではないけれど、ディストピア小説を読むときに奪われてたものはこの辺りだなと思いました。次読むことがあったら気を付けて読んでみよう。
きっと声だけじゃダメなんでしょうね。声は自らの意志を伝える能力であり、言葉を発するという事は、言葉しか発さず、いつしか言葉という形式に支配されることでもあります。
言葉を道具として扱うためには、言葉を自分から突き放して対立するための武器、としての秘密が必要なんでしょうね。言葉には明け渡すことのできない領域。
ディストピア的支配は、言葉という伝達形式の特有の拘束という面もありながら、言語自体の操作に及びます。『華氏451度』ではもろに辞書編集してたし。アニメのサイコパスなんかで、デジタルに対して紙の本を扱うのはこういう事情もあるんでしょうか。マキシマが言っていた「本は読むスピードを調整出来て、読みながら自分の調子をチューニングすることもできる」みたいなのも、物心ついたらいつの間にか勝手にインストールされていた思考の秩序でもある言葉を支配するためのデバイス、象徴だったのかもしれません。
蜂の物語の続き。
ディストピア社会は、一つの目的のために個の自由を重視しない立場です。たいていその目的が乗っ取られてたり、そもそも嘘だったりする。
今流行りのワクチン接種にかこつけて考えると、理性的に考えた場合、ワクチン接種をしない選択肢は十分あがってくるものと思います。
コロナ症状も、副作用の症状も、この私が発症するか否かという点においては、人数比のパーセンテージなんか何の役にも立ちません。
理性的に考えた場合、コロナの感染かつ発症かつ後遺症の確率と、ワクチン接種かつ副作用の確率を考えた場合、ワクチンを打たないという選択が行えてしまうことになります。ちゃんと計算したら絶対そうはならんやろというところですが、早くもワクチンが効かない変異型が!?とかやってる昨今、よくわからんものを身体に入れるのは出来るだけ少なくしたい、というのは当然の心性だと思います。書いててそういう気分にもなってきた。
理性に従って自己の保存のことを第一に考えた場合、ワクチンを打ったり打たなかったり出来てしまいます。ここで、ワクチンを接種させるために必要なのは、他人や共同体に関する視点です。自分がかかるかどうか、自分に副作用が発生するかどうかではなくて、子孫や同族への感染確率を下げられること。
蜂社会だと大層ワクチン接種が楽なんだろうなと思ってしまいます。奇形児を即座に捨てる社会なので、種の保存のためにワクチンを打つことに疑問は抱かれないでしょう。
一方で、自己?が強すぎると、ワクチンを打たなかったり、なぞの狂信に従って反ワクチン運動を行動にまで移すことが出来るようになります。今日もそれに対応した市の職員が発症したりしてましたね。
(バーチャルでなくて)現実での共同体と自己の間でいい感じのバランスが取れるといいんですけど、帰属してない共同体にまで、もしくは共同体にまで、自己犠牲に対する大きな返礼を期待するのが難しい今ではもう無理なのかなとも思います。「永遠の命は死より来る」「汝の死に賞賛を」をちゃんと保証してくれる、蜂の共同体もまたマシなのかもしれません。隣の芝。