やまさんの読書ブログ

やまさんが本の紹介してるブログ、でした。いまもしてます。


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ども。

 

久しぶりのブログ。

 

ここ最近は、飲食店に対する休業要請に従って完全休業、一か月近く何もしていませんでした。

人生の中で1年か2年くらい働かない期間があっても大丈夫、というか病気して働けなく期間がある、とは思っていますが、こんなに早く来るとは思っていませんでした。

運悪くウーバーイーツにも目覚めてしまったため、家から一歩も出ない日が続きましたとさ。3キロ太った。

 

何もしないといいつつ勉強、が生き馬の目をくり抜きあうような昨今のビジネス界隈事情ではありますが、本当になにもしてない。モンハンライズして、ユーチューブ見て、パズル雑誌を何冊か解き終わりました。すでに老後。

 

香川に行ったり東京に行ったりはしました。特に東京には、しばらくいけなくなるでしょうから。到底小麦から出る噛み応えではないし、讃岐うどんはきっとゴム。

自由席1号車1番A席に乗るというささやかな夢を成し遂げました。

 

お酒関係では、ブランデーの勉強しようとしてました。

勉強しようにも、日本語で読めるブランデーの解説本は全くないので、出来ることはとにかく飲み比べることでしょうか。これは継続中。

いまのブランデーの立ち位置としては、「熟成年数に対する値段がおそらく一番安いお酒」でしょうか。

20年もので10000円を切るのは今のところ、ブランデーくらいのはずです。ウィスキー全般はじわじわと高騰しつつあり、12年物ですでに10000円を超えるようなものも増えてきました。

ただ、30年でも20000円未満だったり、50年ものでも6桁行かないところがあったり、他のお酒と比べると、現状破格の値段ではあります。

熟成させるお酒は基本的に15~20年を超えてからが本領なので、この値段で買えるのはありがたいと言ったところです。5桁するお酒は高いという感覚を忘れずにいたい。

 

 

映画を見に行きました。

FGOの映画の後半部。

この一月、もしくは二月以上、まともに通読や通覧してなくって、本当に久しぶりで新鮮な体験でした。こんなこと言うようになるとはね。積ん読は増えるのに。読まず。

ゼミ関係の本や、シンエヴァなんかは見てたけど、頭にもやがかかっていたようで、何も覚えていません。

しゃばけや鬼人幻燈抄、鬼滅まどろみバーメイドテロール教授なんかの新刊もいくつか読んだはずですけど、シリーズ物の続きなので、いかんせん通読する感覚ではないと言いますか。

時系列から切り離された断片を見ていて、全体ではないというか。

例えば日常物のアニメだと、12話×前後半で24のエピソードを、季節感や進級に合わせつつそこそこ並べていく構成になります。一つ一つのエピソードに、その順番でなければならないという必然性は薄く、そのエピソードでなければならないという必然性もそこまで高くありません。

 

これを極端にすると、休み中にユーチューブばっか見てた私の生活になります。

5分くらいの断片を、いつ何を見ても良い。一貫性はない。世界観は一定でないが、ある程度同じチャンネル、大まかなジャンルには縛られるため、そこそこ分かる。

 

対して、フェイトのようなストーリー性の高い作品だと、12話×20分で4時間、この短い時間の中で大きな目的を果たして、かつ、齟齬をきたさないようにそれぞれのキャラクターの行く先を描かなければならないために、物語の一つ一言の必然性が大きなものになります。400頁しかない小説も同様に。

意味の・必然性の密度が全然違う感覚があります。

それに、その時間のなかで完結する、それ以上物語が広げられない、という制約も強い。

 

久しぶりに密度の高いものを見て、満足しました。

 

扱われているテーマが自分好みなのもあり。フェイトはサブキャラをサブキャラにとどめないで、ストーリー上で要請された役割以上のものを背負わせてくれるので、誰をとっても見ごたえがあります。

FGOやってた人には周知の事実だったんでしょうけど、マシュ・キリエライトに宿った英霊の正体が分かるシーンが好きでした。FGOやってなくて、かつアーサー王関連の知識があってよかった。

 

 

 休み中にずっと読んでた本。ゼミのせい。

 

いわゆる「読み」の立場には3つの次元があって、それは作者、読者、テクスト、です。

作者の読みは、いわゆる作者の気持ちや作者の意図を読み取る読解の方法ですが、バルトによって、理論的にこれを知ることが出来ないと告げられてから、見向きする人があんまりいなくなりました。

読者の読みは、読者が思い思いの物をテクストに読み込む方法です。

今ではSNSのおかげで一見当たり前のようで、(というかこれしか方法が取れなくて)テクストの内容如何に関わらず、思った連想をそのまま述べる、いわゆるクソリプを可能にしてしまう原理でもあります。タイトルの「深読み」、文中では「過剰解釈」はこのことを指しています。

なお、文中でジョナサン・カラーが「浅読み」と呼ぶべきだと指摘していて、私もこの方が適切だと思います。

エーコがわざわざ「深読み」というワードを使うのは、エーコが問題にしているものが、神曲から、ほとんど無理やりに近いような方法を使って、当時の政治家の名前とその行く末を読みだしてしまうような読解だからです。求めている真理が必ず当該テクストに隠されているというヘルメス主義的な信仰。

これに対する第3の立場が、テクストです。テクストが言っていないことを指して、解釈と呼ぶのは難しいとする立場(連想とはいえるでしょうけど。)。

テクストが何について言っているのか、まさか文字通りだけを読むわけにはいかないので、この立場は正当性を主張するのがそうとう難しい立場になります。

エーコの主張は、「テクストの経済性」という概念を用いれば、解釈が明らかに誤っているかどうかだけなら判別できるという主張でした。解釈が一義的に正しいかどうかは判別できない、というお約束があります。

ある解釈が、テクスト自体の一貫性と食い違わず、その説明以上に経済的な(合理的な、の意味で用いている?)説明が与えられず、不特定多数を示さない(でかい主語とか、ですかね?)限りは、その解釈は正しいと認めることが出来る、というようなものでした。

ただ、このレベルを満たしたテクストがいくらあるのかという問題はぬぐえません。エーコは相当ハイレベルなテクストで行う知的ゲームのことを解釈と呼んでいるようです。推理の楽しみ以上に楽しいのかね、これ。

また、個人的には、このテクストの読み方は、有限の複数の可能性を探り当てていくゲームに近く、「この私が読む意味」があんまりないと感じます。極論、駒が多く、かつ明確でないチェスみたいなもんです。テクストには外から何か読み込んでこそ、この私が対決し、変質してこその読書です。

 

久しぶりにブログ書きました。Twitterばっかしてたけど、140文字以上書けるのはやっぱ楽しいですね。